Ismet Berkanコラム:ラディカル紙へ、感謝と別れの言葉
2010年09月01日付 Radikal 紙

皆様のお手元にあるこのラディカルは第5071号。すなわち本紙は5071日発行されている。あと43日経つとラディカル紙は15周年を迎える。
私は創刊日から本紙に携わり、このコラムを担当し、ほぼ10年間本紙の編集長を務めてきた。このコラムは私のラディカルで最後のコラムである。別れのコラムである。

15年前にメフメト・ユルマズ氏の主導でラディカル紙の発行の準備をしていた時、「どんな新聞を作るのか」と問われたが、それに対して、我々は「新聞のような新聞」と答えていた。
本紙は常に新聞のような新聞を目指してきた。これからもそうであると私は確信している。

私は1978年末以来ずっと、すなわち32年間ジャーナリストを務めている。ここ15年間はラディカル紙で過ごした。そのうち10年間は編集長を務めた。
仕事はジャーナリストとしてよりも編集長としての部分が大きく占めていた。10年という期間も編集長として短くはなかった。

ジャーナリストとは、気難しい人間である。誰もがエゴを持っているため非常に歯痒い思いをする。これほどエゴを持った人間を統率しようと努め、また共通の目的のために、能力を最大限に発揮して仕事をしてもらいたいと彼らに望むことは、私にとって最も労力を要する仕事であった。
非常に楽しくてやりがいも大きかった一方、地獄の苦しみを味わったこともあった。
今や私も、何年もの間機会を見ては、からかってきた「編集長御隠居クラブ」の一員だ。

新聞とは何なのか、ジャーナリストとは何なのか、ジャーナリストは読者に意見やニュース、プライオリティを伝えているが、その資格はどこから得ているのか。
これらの問いは、わたしがこの職業に就き始めた日以来ずっと頭の片隅にあるものである。その答えを見つけられたわけではなく、見つけられるとも思っていないが、これらを自問しないで過ごした日は一日もない。
問い続けることそれ自体は、答えよりも重要だと思う。なぜならこれらを頻繁に自問しなければ、ジャーナリストは新聞やコラムを単に自分のエゴのために、あるいは個人的な目的のために利用してもいいと思ってしまう可能性もあるからだ。

日々新聞を作るというのは何十、何百、おそらく何千もの決断をすることを意味する。
もちろんこれらの決断の全てを編集長がするわけではないし、できるはずもない、しかし最も重要で最も決定的な決断は、最終的には編集長によって下されるものだ。
このような決断をしたときは、ジャーナリストはそれらを天秤にかける必要がある。この天秤とは君たちジャーナリストの知性であり、道徳であり、正義感である。
これほど毎日新聞を発行すれば、否応なしに人は間違いを起こす。これらの間違いの全ては私が犯したものであり、その全責任は私にある。
本紙では非常に滑稽で思い出すたびに大笑いするような間違いも起こした。非常に重大で、人々の人生に影響を与えるような間違いもあった。
我々は全ての間違いを故意に起こしたものではないし、単に悪意を持ってやろうとしたものでもない。間違いを起こしたと分かった時は謝罪に出かけ、自分自身をばかげた物言いで弁解したりもしなかったし、横柄な態度を取って間違いをなかったことにしようともしなかった。
我々はラディカルで何十回、何百回も間違いを重ねながら、類まれな素晴らしいジャーナリズムの仕事を勤めてきた。
そこでの成功は、この新聞を新聞にするために日夜努力した素晴らしいジャーナリストたちのものである。私がこうした成功に唯一果たすことができた役割は、せいぜいその素晴らしいジャーナリストたちと同じ瞬間、同じ新聞で仕事ができたという栄誉を持つことくらいだ。
ラディカルはトルコの歴史的流れの重要な転換点において、非常に重要かつ非常に急進的な役割を果たした。トルコでの人権や民主主義の向上において、我々の役割がほんのわずかでしかなかったとしても私には十分だ。
15年前に人権について言及することは、共産主義者、破壊主義者、敗北主義者、分離主義者と見なされるのに十分であった。今日この見識が変化したならば、ラディカルがこの変化に重大な役割を果たしたからであり、謙虚になる必要はない。

ラディカルはこれから私がいなくなっても今まで通り続いていく。私の役目はエユプ・ジャン氏に引き継がれるが、私は彼が本紙を今の地位からさらに高めてくれると信じている。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:三上真人 )
( 記事ID:20072 )