Oral Calislarコラム: 世俗主義者の中にも深い分裂
2010年09月05日付 Radikal 紙

我々の世代は友人の葬式や拘置所、拷問場所、軍刑務所や法廷で知り合いになったものだ。我々は「軍クーデター」の犠牲になったのだ。最初に我々が直面したクーデターは、1960年5月27日のクーデターであった。当時はまだ幼い年頃だった。
両親たちは我々に、このクーデターは「良いクーデター」であると言ったものだ。我々もそれを信じた。その時は選挙で選ばれた政府が転覆されるということが、どのようなことを意味しているのかまだ理解していなかったのだ。首相や大臣たちが、クーデターを起こした者たちにより処刑されることで導き出される結果もわかる年齢ではなかった。
1971年3月12日のクーデターは、我々の世代より前の世代の人々を刑務所に押し込んだ。最も注目を浴びていた人々や、最も反抗した人々に最も重い刑罰が与えられた。先駆者たちが処刑されたのだ。一部の友人たちは、「衝突」で銃撃を受けた。
我々は「良いクーデター」と「悪いクーデター」を区別して、その状況をなんとかやりくりしていた。1960年5月27日クーデターは「良いクーデター」であり、1971年3月12日クーデターは「悪いクーデター」であると。このようにして我々は歩み続けてきた。一部の右派たちは、正反対の心理状態の中にいた。彼らからすれば1960年5月27日クーデターが悪く、1971年3月12日クーデターが良いクーデターであると思えたのだ。
二度にわたるクーデターでも飽き足らない軍は、「10年に一度」の慣習をその後も続けた。右派と左派の両者が、1980年においては逮捕された。本来は左派の人々が標的とされたのだが、右派の人々もクーデターの被害を免れることはできなかった。68年の世代は、このクーデターにも関わらずまだ状況を理解できていなかった。このクーデターというものが、「根幹から」間違っており、反民衆的な本質を有していることが受け入れられなかったのだ。我々の世代からすれば、(1980年)9月12日と(1971年)3月12日(の二度のクーデター)は悪いものであった。しかし、(1960年)5月27日(クーデター)は「その時も尚」良いクーデターであったのだ。

68年世代の左派たちと彼らの追随者たちは、初めての挫折をクルド問題で経験した。それ以前に声高に叫んでいた「国民の自決権」が、今度は要求として彼らの前に現れた。クルド人たちは、「アイデンティティー」を求めて現れたのだ。歴史上最も犠牲者の多い反乱の一つが起きた。国家のテロは無情なものであった。トルコ人の左派たちは驚き、そして分裂した。一部はこの要求が「クルド民族主義者」の要求であると考え、「いかなる種類の民族主義者に対しても反対する」といった「高邁」な立場に立ち続けることを選んだ。左派たちは、「いかなる時もクルド民族主義を支持できなかった」のだ。彼らはクルド民族運動と距離を置いた。しかも上からの物言いで、「クルド人たちはまず封建制度を廃し、自分たちの長に反対すべきだ」と言い、彼らとの距離を大きく広げたのだ。
クルドアイデンティティーの要求は、トルコ人左派たちを真っ二つに分裂した。一部の左派たちは、クルドアイデンティティーの要求を支持していた。折から軍と篤信者たちとの間で権力争いが始まった。軍は、宗教的な背景を持つ政党は望まないと言明した。彼らが勝利した選挙を「合法的である」と見なさなかった。これらの政党は、司法制度をも駆り立てて事態を鎮圧しようとした。イスラム的な一部の政党は解党され、党首たちは政治世界の外へと追い出された。これらによってもまだ満足できなかったことが、その後明らかとなった。軍事的クーデターの計画も立てていたようだ。

この点においてトルコ人の世俗主義者たちや、トルコの知識人たちはさらにもう一度分裂した。1997年2月28日のポストモダンクーデターは、この分裂を後押しする力となった。トルコ人の左派や知識人たちの一部は、両親たちから引き継いだ「良いクーデター」の伝説を引き摺り続ける一方で、他の一部はこの「遺産」を拒絶した。軍による政治介入が、社会に非常に大きな被害を与えたと主張した。まさにこの分裂が、トルコにおける政治の行末や方向性を決定づける影響力となったのだ。「軍よ、動いてくれ。そして我々をシャリーアから救いだしてくれ。軍は我々にとって(宗教的)反動に対する保証だ」とのスローガンはもはや声を揃えて唱えられなくなった。軍国主義的な制度が批判されていたのだ。

議論と分裂は深まった。あらゆることが昔のようではなくなってしまった。共和国エリートたちは一部の左派たちをも自らの後ろに引き連れて、「この国は我々が動かすのだ。他の連中には渡さない」と言っていた。数年来共に歩んできた世俗主義者のグループも敵に回した。「クーデターの魔法」は解けてしまった。世俗主義者たちは分裂した。この分裂は、一部の人々が考えているような無意味な分裂などではない。この分裂に端を発する緊張状態も、無意味と言うことはできない。この分裂は、トルコが必要とする民主化の産物である。今日に至るまで民主主義に背を向け、モダニストのエリートたちを追随していた一部の人々が、今「みんなのための民主主義」と言って昔の陣営を放棄した。騒動の発端はこれである。
必要なことは、きっとこれだったのだ。
左派は本当のアイデンティティーを、おそらくこのプロセスの最終段階で回復することになるだろう…

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:20105 )