アタテュルク『ヌトゥク』、執筆秘話
2010年11月06日付 Milliyet 紙

アタテュルクが、世界的にも長い演説として知られる40万単語の「ヌトゥク」を執筆する際、彼のそばには二人の人物がいた。そのうちの一人はアリ・ルザー・エルディムである。彼はまたの名をベベ・ルザーと言う。べべ・ルザーは当時大統領公邸にルザーという人物が四人いたためこう呼ばれていた。四人のルザーとは、ハサン・ルザー・ソヤク(秘書官)、イスタンブル調達官のキョセ・ルザー(オザク)、公邸の長老でアンカラの備蓄調達を行うババ・ルザー、そして書記のアリ・ルザー・エルディムである。エルディムは、アンカラの人々が若輩者たちを「ベベ(赤ん坊)」と言うので自分もそのように呼ばれていたのだと言っている。この公邸の「ベベ(赤ん坊)」は、アタテュルクが特別に重要な決定を行った際にもそばにいた。イスメト・イノニュの首相解任を通知する書類も彼が書いたものである。

■二ヶ月間来客がなく、晩餐も行われず

問:学校を卒業したあと役人になることを希望するようになり、そして働き始めたことについて説明していただけますか?
-はい、私は孤児として育ちました。父はバルカン戦争に出征し、戦死したと聞きました。隣人たちの助けで高等小学校を卒業し、その後寄宿生として中等学校を終えました。共和国政府樹立の際、大国民議会(BMM)で空きのあった職につくことを希望しました。また兵役が延期されていたことも知りました。これは私にとって大きな機会となり、その後試験を経て任命されました。

問:その頃、お幾つでしたか?
-19歳か20歳でした。のちに、BMMの議長であるムスタファ・ケマル・パシャの秘書官として働きました。そこで働いて、給料は議会から貰いました。その後1923年に選挙が行われました。選挙の後、私は再び議会で働きたいと申し出ましたが、「いや、引き続き給料は議会から受け取り、ここでの仕事を続けなさい」と言われたので、そのまま働きました。結局1962年まで秘書として40年間働き続けました。アタテュルクがトルコ各地を訪問する際にも同行しました。これらの訪問ではいつもご褒美をもらっていました。時にはケマル・パシャから直接もらうこともありました。例えば、1927年にあの「偉大なヌトゥク」を書くことを決めた時にも、そんなことがありました…

問:「ヌトゥク」の執筆が始められる時、どこにいましたか?
-その時ケマル・パシャは公邸にいて、秘書官は駅にいました。公邸から秘書官がいる所に1台の車が来て、同時に電話で話しました。そこで「全員1行ずつ字を書くように」と命じられました。

問:何を書くのかは決まっていましたか?
-適当な字を書きます。皆1、2行分の字を書き、再び車に渡しました。少し後に書いたものが戻ってくると、そのいくつかに(×)の印が書かれており、電話も来ました。印の付いた者はその車に乗って公邸に来るように、と。戻ってきた紙を見ると、私の他にメムドゥフ(アタセヴ)のところにも印がありました…この友人はアタテュルクとサムスンに行った人です。私たち二人は車に乗り参上しました。パシャ(アタテュルク)の部屋に入り、挨拶をしました。「もう一度あなたたちに1、2行、書いてもらおう。紙とペンを取りなさい」と言いました。私の字はまた少し曲がってしまいました。もちろん素早く書いたためにそうなったのです。議会で書記をしていた時も、素早く書くためにいくつかの単語を日本語の書き方のように曲げて書いていました。古い書き方を知っている人にはわかるでしょう。アタテュルクは私に「あなたはとても曲げて書いていますね」と言いました。

問:アタテュルクがそう言ったのですか!
-はい、アタテュルクがです。そして「あなたは記録文書を書き写しなさい、メムドゥフ・ベイは私が読みあげるものを書き写しなさい」と言いました。私たちは執筆の間、彼のそばにいました。彼は部屋の一角で、私たちは別の片隅で互いに働き、私とメムドゥフ・ベイは文章を書き写し始めました。私たちが朝やって来た時、すでに彼は前の晩から全く寝ずに準備をしていたようです。私たちは床に落ちた紙を集めました。私は記録文書を、メムドゥフ氏はアタテュルクが読み上げるものを書き写しました。このようにして「ヌトゥク」の執筆は二ヶ月続いたのです。

問:「ヌトゥク」執筆の間、周りに誰かいましたか、何かの用があった時の為に?例えば、コーヒーを頼んだりしましたか?
-寝るまでアタテュルクの召使いがいました。彼はチャイは飲まず、コーヒーを非常に好んでいました。タバコもたくさん吸っていました。またヌトゥクを書いている時、客はまれにしか来ませんでした。私たちは働き続け、彼は酒を飲むこともありませんでした。食事の時にも酒は飲まなかった。つまり、全く飲まなかったと言えます。

問:当時彼は何を食べていましたか?
-食べ物に関心を持ってはいませんでした。目の前に置かれたものを食べていました。クルファスリイェ(白いんげん豆のトマト煮込み)を添えたピラヴも好んでいました。毎晩食べてはいませんでしたが、彼が望んだ時には、このクルファスリイェを添えたピラヴが用意されました。アタテュルクは「ヌトゥク」を書き終わった時、少し体調を崩していました。そのために…

問:1927年に…
-そうです。ヨーロッパから二人の医師が呼ばれました。首相は当時イノニュでした。彼とネシェト・オメル(イルデルプ)・ベイもまたケマル・パシャの病気を気にかけていました。外国人医師たちの報告とネシェト・オメル・ベイによる報告は同じ、つまり休養が必要というものでした。他に病気はなく、健康でしたが、少し休養が必要であるとの報告が出されました。そのためアタテュルクはイスタンブル行きを決め、彼と私たちは1927年の、おそらく6月に(ハルドゥン・デリンの本によると1927年7月1日)イスタンブルに行きました。

問:最初のイスタンブル行きでしたね?
-そうです。イズミトで降り、ヨットのエルトゥールル号に乗りました。イズミトから宮殿まで盛大な歓迎を受けました。

問:なぜ「宮殿まで」なのですか?イズミトで船に乗ったのですよね。
-ドルマバフチェ宮殿の前までずっと出迎えの人々がいました。ディーゼルエンジン船やヨットでやって来て、海は歓迎する人でいっぱいでした。私たちの乗るヨットは辺り一面囲まれていました…宮殿で1日、2日休息し、私たちのような若者がアタテュルクに同行するというお役目も、そこで終わりました。

■それぞれ500リラを受け取った

問:アタテュルクは「ヌトゥク」執筆のためにあなた方を呼びましたよね、つまりあなた方とともに「ヌトゥク」執筆は始められた。「ヌトゥク」に関して何か教えてください。
-「ヌトゥク」を書き写した後、私たち二人はその引き渡しを命じられていました。私たちはイスタンブルで、ハサンザーデ(ハサン・ルザー・ソヤク)から黒くて立派なスーツケースを渡されました。そのスーツケースには二つの鍵がついていて、そのうちの一つを私が、もう一つをメムドゥフ・ベイが持ちました。スーツケースは私たち二人がいなければ開けられないようになっていました。

問:このスーツケースはイスタンブルのどこに運ばれたのですか?
-このスーツケースに「ヌトゥク」を入れて、私たちの寝室にもっていき、そこに置きました。つまりイスタンブルのドルマバフチェ宮殿にある私たちの部屋に運ばれました。私たちの部屋は宮殿の一階、入って左から三つめのところにありました。そして「ヌトゥク」で言及されていること、例えばヌレッティン・パシャや、アリ・シュクル事件など、バラバラになっている項目の間に紙をはさんでおきました。パシャ(アタテュルク)が望んだ時に、私たちがそれを見つけ、持って行って渡していました。「ヌトゥク」を執筆するために、私たち二人にはそれぞれ500リラが渡されました。

■給料の15倍の衣装代

問:あなたが秘書官になって、最初に旅をした時はどうでしたか?
-秘書として特別な服を持っておらず、みすぼらしい格好をしていました。私のこの様子を見て、彼(アタテュルク)は「彼に服を」と言い、ハサン・ルザー・ベイに600リラを渡しました。

問:当時の給料はいくらでしたか?
-給料は40リラだったと思います。もしかしたら35リラほどだったかも知れません。

問:それでは当時の明細などはないのですか?
-ありません。領収書に署名して、給料を受け取っていました。それに当時の生活は、本当に質素なものでした。アンカラは物価の高い都市ではありませんでした。夜、遅くても9時や10時頃になれば、犬が吠え、あたりは静まり返り、人の往来もありませんでした。駅と市街地の間にはなにもなく、緑が広がっていて、果樹園になっていました。犬がたくさんいて、道はアスファルトではなく、すべて土でした。

問:つまりそのため新たな服を仕立てる理由があまりなかったのですね。
-そうです。実際のところアンカラに新調した服が要るような暮らしはありませんでした。だからパシャは、「その若者に服を」と言って私をイスタンブルに送り出したのです。

問:600リラは当時高額ですよね?
-ええ、非常に高額でした。

問:誰が支払ったのですか?秘書官長ですか?
-はい、その時はハサン・ルザー・ベイが私をイスタンブルに送り、代金も彼から貰いました。切符も彼がくれました。イスタンブルで仕立て屋に行き、4着のスーツを仕立てました。オーバー、フロックコートなどの一式も仕立てました。

問:何日イスタンブルに滞在したのですか?
-1週間半ほど滞在し、その後服が送られてきました。

問:最初の旅はいつでしたか?
-1926年だったと思います…私たちはイスタンブルへ行く前に、海を見るために時にはブルサへ、時にはイズミルへ行きました。

問:国民闘争の開始以降、1927年まで、アタテュルクがイスタンブルへ行かなかったことに関して思い出はありますか?
-1927年までイスタンブルへ行く余裕は全くなかったようです。イスタンブルへ行った者たちが帰ってきた時にのみ、その詳しい情報を聞いていました。このような集まりの場にはナジ・エルデニズ・パシャもいました。ある時アタテュルクは、エルデニズ・パシャに、「パシャ、見てください、イスタンブルに行ってきた者たちは、なんて上手に説明するのでしょう。私たちもまるでその様子を見てきたような、幸せで楽しい気持ちなるのです。あなたもしばしばイスタンブルを行き来していますね。あなたの話はまだ誰も知らないでしょう、どんな思い出がありますか」と言ったそうです。それに対してエルデニズ・パシャは、「はい、私は思索にふけるのに夢中になり、子供のように無邪気に振舞ってしまいます」と言い、アタテュルクは笑ってその表現を気に入ったようでした。ナジ・エルデニズ・パシャのことが思い浮かびましたが、今度は私が聞いたことを話しましょう…ある日アタテュルクは、ナジ・パシャを呼んで目の前の地図のある場所を示し、「さて、ここを流れている川の名は?」と言いました。ナジ・パシャは地図を見て、「スィズ(あなた)川です」と言いました。これに対しアタテュルクは、「おや、それほど上品な名前ではありませんよ」と言いました。その川の名は、セン(きみ)川でした。ナジ・パシャは一時期我らのパシャにフランス語も教えていたと思います。

(後略)

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:20615 )