マラシュ惨殺の追悼式典で緊張の一幕
2010年12月19日付 Hurriyet 紙


カフラマンマラシュにて1978年に起き、111名の死者を出した事件の32周忌を追悼するために、アレヴィー・ベクタシ連合によって追悼式典が行われている最中、(手の指で)「灰色の狼」を表すジェスチャーをした集団が式典会場に行進してきたため、会場の緊張感を高めることとなった。警察が警戒態勢をとる中しばらく騒ぎが続いた後、式典は時間を短縮して閉会し、追悼式典を行った人々もその場を離れた。この間、カフラマンマラシュ事件の第一の被告人であるオッケシュ・シェンディレルも、式典会場での騒動を県知事府の向かい側にある連絡事務所から傍観していた。

アレヴィー・ベクタシ連合会長アリ・バルクズは、事件の32周忌を追悼するために各県から訪れ、ミュフテュリュク広場での合同記者会見場に集った人々に向けて話しをおこない、カフラマンマラシュにて初めて追悼式典が行われたと述べた。バルクズ会長の会見終了後、バフチェリエヴレル交差点からまず 100名ほどが、その後さらに大きな一団が、追悼式典に参加した約1000人の集まる場所へと向かってスローガンを叫びながら行進してきた。

「灰色の狼」のジェスチャーをしながら神を賞賛する言葉を叫ぶ者達が、「アポ(オジャランの愛称)の子」、「ここはマラシュだ、逃げ道はないぞ」といったスローガンを掲げたことを受け、警察はこの集団を止め、解散を要求した。この間に抵抗する者も現れ、数人が逮捕されるとともに、警察は催涙ガスを使用した。その騒動の間にニヤズィ・タヌルル県知事とムスタファ・アイドゥン県警本部長も現場に駆けつけた。追悼式典は早々に終了され、参加者たちは急いでバスなどに乗りその場を離れた。

追悼式典の参加者たちへ抗議活動を行うために広場周辺に集まった人々の数は500人を超えた。民族主義者行動党(MHP)所属の県や郡支部指導者たちが、抗議活動の解散を要求する声明を出した。MHPの議員たちは、この抗議活動が党員や「理想の炉辺」組織とは無関係であると述べた。

このカフラマンマラシュでの追悼集会を、カフラマンマラシュ事件の公判にて第一級の被告人として起訴されたオッケシュ・シェンディレルも、広場に面したビルの中にある自身の事務所から眺めていた。同氏は無罪として釈放となった後、MHPの国会議員として選出され、後に大統一党(BBP)にて任務に就いている。

■事件の再検証を

アレヴィー・ベクタシ連合のアリ・バルクズ会長は追悼式典での会見にて、1978年の事件が国家諜報機構(MİT)内部のある分派によって引き起こされたと発言した。同会長は、「この挑発により市民は敵対関係を持つようになった。虐殺の資料がもう一度紐解かれてほしい。(1980年)クーデターの首謀者たちが取り調べられてほしい」と述べた。アリ・バルクズ会長は以下のように続けた。

「あの暗い時代の末期に、公式記録によれば、カフラマンマラシュでは111人が殺害され、1000人が負傷し、552棟の家屋と289棟の職場が破壊され、8台の自動車が焼却された。トルコの歴史に真っ黒なシミをつけたのだ。この虐殺を計画した闇の力がそれほどに大胆であったために、殺人者たちではなく、犠牲者たちが裁きを受けた。裁きを受ける対象がずれるようにしたのだ。では真実はどこにあるのか?真実は、虐殺を経験し生き残った人々の記憶の中に、裁判所の正式な報告書に記述された目撃者の証言の中に、何百万人ものアレヴィーの心の中に、そして命を失った愛しい人々の墓石に記されているのだ。この日々を忘れはしない。カルバラーも、デルスィムも、マラシュも、シヴァスも、マラトゥヤも、ガーズィも忘れはしない。われわれアレヴィーは恨みを抱いたりしない。復讐をしたりもしない。人を殺したりもしない。傷付けられたとしても、誰も傷付けない。しかし傷付けられ続けてさらに傷を受ける場所もないことに気付いている。だからわれわれは団結しているのだ。市民団体法の可能性を駆使しながら、それに基づいて行動しているのだ。スンニー側によるアレヴィーとの問題も、アレヴィーの側によるスンニーとの問題もない。基本的な問題は、(社会)システムや国家が、われわれアレヴィーを無視し無き存在とみてきたことだ。」

■ カフラマンマラシュ事件

カフラマンマラシュにて1978年12月19日から24日にかけて起こり、「マラシュ事件」と呼ばれるこの事件は、(1980年)9月12日クーデター実行の根拠として利用された事件の1つとして認知されている。アレヴィーや左派の人々と「理想の炉辺」メンバーを挑発した人物達が事件の原因とされ、この事件の間、(現地)の治安警戒態勢では不十分となり、当該地域へカイセリやガズィアンテプから軍隊が派遣された。当時の検察官は、(この間に)200名を超える死傷事件が起きたと推測されると発言した。しかしこの発言に反して、公式な数字によれば111名が死亡し1000名が負傷したとされている。この事件の第一級の被告人として、アダナ県戒厳令司令部裁判所にて裁かれたオッケシュ・シェンディレルは釈放された。釈放された後、当時は「ケンゲル」であった姓を「シェンディレル」へ改名した。

戒厳令裁判所にて開かれた裁判は1991年まで続いた。その間に右派、または極右思想の持ち主と判断された計804人についての公判が開かれた。被告人の内29人が死刑、7人が終身刑、321人が懲役1年から(最長)24年の刑を言い渡された。死刑と終身刑以外の判決を受けた者には、6分の1の割合で減刑が適用された。戒厳令裁判所の判決は最高裁判所によって撤回された。再審理の結果、死刑は適用されなかった。1991年に発布されたテロ闘争法により、刑の執行が延期されていた者たちも釈放された。この事件の後、アレヴィー市民たちの大部分がマラシュを離れた。

カフラマンマラシュにて1978年12月19日にチチェキ映画館で放映された、「理想の炉辺」青年協会主催による「日はいつ昇るのか?」というタイトルの映画の終わり頃に爆発が生じた。その後、共和人民党(CHP)の建物への襲撃が起きた。(同年)12月20日にアレヴィーや左派の多くの人々が集う「アクン・カフェ」に爆発物が投下され、負傷者が出た。その日の夜には右派市民の民家で爆発が起きた。翌日21日にはマラシュ職業高校の教員であるハジュ・チョラクさんとムスタファ・ユズバシュオールさんが、職場から帰宅途中に武器による襲撃を受け死亡した。彼らの遺体が5千人の参列者とともにウル・モスクへ運ばれる途中、対立グループは集まり「共産主義者はモスクワへ」、「殺し屋の権力者」といったスローガンを掲げて(葬列者たちを)襲撃した。葬列者たちは逃げ、遺体はその場に残された。このグループはアレヴィーが多く住む街を襲撃する中、事件は収拾のつかない事態となった。建物は焼かれ、略奪行為が行われた。街路での衝突では3人の襲撃者が死亡した。この模様が人々に伝わり、深夜まで続いた(襲撃)事件により、死者数は111 名に上った。(これを受けて)戒厳令が(当該地域へ)発令された。

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:21009 )