テオマン・ブラクル教授とのインタビュー
2011年01月16日付 Yeni Safak 紙


テオマン・ドゥラル教授は一見「私たちみたい」と言えるような人だ。しかし彼はイスタンブル大学文学部哲学科の廊下なんかよりも、一風変わった教授を題材にした物語もしくは映画の方が似合っている。私が誇張していると思わないでください。彼の生徒たちだけではなく、他の学科の学生までもが彼の授業をとり、熱心に授業を聞き、哲学だけでなく生物学や人類学の教育も受け、数え切れないほどの言語を知っており、世界の聞いたこともないような地域を細かく回り、テクノロジーの奴隷になりたくないと言って携帯電話を使わないテオマン・ドゥラル教授は、本当にこの世界に属していないようだ。彼の言葉を読んだら、みなさんもそう思うようになるでしょう。

■あなたのお母様はドイツ人で、お父様はコーカサス人ですよね・・・これらの文化はどのように一つになりえたのでしょうか。

それだけではありません。実はもっと複雑なのです。父の父方はクリミア・タタール人です。300年前にオスマン朝によってクルジャアリ近くに移住させられました。1800年代の終わりにはブルガリア人が彼らを追うため彼らの村に豚を放っています。そこに住めなくなると、祖父は8歳の時に一人でイスタンブルに来ます。祖母の側はコーカサス人の今はなくなってしまった一族の出身です。「ウブフ」という名です。

■このような家庭に生まれるという事はどうでしたか。

私は幼少期から青年期までとても苦労しました。私が育った時代にはこれらの文化はそれぞれ特徴を持っており、互いにとても異なっていました。1985年以降、通信革命とともに文化間の、さらにはトルコの地域間の違いがなくなりましたが、私は今日ですら異なる文化間の結婚には反対です。そのつけを払わされるのは子供たちなのです。

■お父様は国会議員でしたよね。政治と深くかかわった家庭に生まれることであなた自身は政治に興味を持ちましたか。

政治の只中に生まれましたが、政治に関心はありません。父は1952~56年の間、国会議員をしていました。話はたくさん聞きました。私よりも年上の人たちは歴史の最も重要な時期を経験した人たちです。混乱期を生きた人たちの話を聞いて育ちました。私は赤ん坊で座れるようになった時からその大人たちが死ぬまで、私は彼らの経験を聞いて過ごしました。政治はある意味私の運命になりましたが、政治やジャーナリズム、法学は私には興味深いものに思えませんでした。私が若い頃は、作家や思想家、文学のグループはキュルルクに集まっていました。私は彼らの話を聞いていました。当時は分からなくてもそれらは耳に残っており、時が経つにつれて深くそれについて考えるのです。こういった会話が研究材料となります。私は実際にこの目で見て聞いてきた出来事を材料として使っています。哲学の研究はどこかで回顧録のようになります。

■あなたが関心を持った分野はどうやって一つにまとまったのですか。

もともと関心を持った分野は自然です。人間の人間に対する、そして自然に対する態度です。これに最も興味をひかれ、こういった方面で教育を受けました。哲学と生物学です。

■お父様の政治家としての哲学への態度はどのようなものでしたか。あなたが哲学を学ぶことに反対されましたか。

父はあらゆる面で私の障害となりました。このうちの一つが哲学です。哲学を学ぶと言うと、ひどくショックを受けていました。父にはとても深い文学の教養がありました。オスマン朝の詩人のほとんどを知っていた上、中央アジアのアリー・シール・ナヴァイの詩まで知っていました。父は、「私たちは智というものを知らないのに、なぜお前は智の頂点を学ぼうとするんだ」と言いました。しかし父の反対にも関わらず私は哲学を学びました。私は卒業しましたが、父は博士に進むことを望みませんでした。しかしこれが他の事をするきっかけになりました。

■いつもこのようにお二人の仲は緊張していたのですか。

父との仲はとても緊張したものでした。私はいつも父を尊敬していました。私にとって父は美徳の象徴でした。しかし、亡くなった後に自分が父をどれほど好きだったかが分かりました。父ほどに美徳ある唯一の人物は、恩師のアフメト・ユクセル・オゼムレでした。彼らは美徳に取りつかれた人たちです。並大抵の美徳ではありません。例えば、父は非常に責任感の強い人でした。権利があるのに公用車を母や別の人に決して使わせませんでした。とても厳しい人でした。最後のオスマン人です。

■生物学もあなたの関心のある分野ですが、哲学の方が勝ったのですね。

はい。私は哲学を選びました。もともとやりたかったのは生物哲学でしたが、あらかた失敗しました。基礎を見つけられませんでした。トルコの大学教員は高校教員と大して変りは無いのです。

■言語習得に特別な関心があると聞いています。では、何言語ご存知ですか。

これはよく聞かれる質問ですが、トルコ語以外のどの言語もちゃんと自分のものになっているとは思っていません。パソコンやインターネットよりも前から、私には非常に広い文通仲間の輪があり、様々な言語で手紙を送り合っていました。語学教師とも彼らの言語で文通をし続けました。フラマン語(オランダ語)は、ベルギーからトルコへ来た女の子と知り合い、その子と文通をしながら学びました。私にはこのように熱中症な面があります。一つの事にのめり込むと、とことん突き詰めてしまいます。授業には出ずに、全力で言語習得に取り組みました。私が高校生の頃にはたくさんの国の文化センターが建てられており、私はその全ての会員になり、それらの言語を学びたいと思っていました。しかしお金がありませんでした。英語を教え、そのお金でラテン語を学び始めました。バランスを取りながら取り組もうと努めました。言語を学ぶ事はその言語がもつ文化に入りこむという事です。私は、人間は一つ以上の文化を持つ事は出来ないのだと分かりました。

■先生はとても謙虚ですね。それではどの言語を話す事が出来ますかと聞きましょう。

楽に話す事が出来る、自分を表現できる言語は、ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語、スペイン語、フラマン語(オランダ語)、ペルシア語です。その他は、文章を読める程度です。言語は非常に恩知らずです。私はマレー語を楽に話し、読む事が出来たのですが、今は記憶の彼方へ行ってしまいました。アラビア語は18歳で勉強し始めましたが、使わなくなるとまたそれも忘れてしまいました。今はアディゲ語とザザ語を勉強したいと思っています。これらはなくなりつつある言語で、守っていかなければならなりません。

■旅行もお好きだと聞いています。特に珍しい場所へ旅行へ行っていますね。一番気に入った場所はどこでしたか?

歴史的観点から、ずっと昔にタイムスリップさせてくれるのは、ボルネオとニューギニアです。すごく気に入って、住みたくなって、離れたくなかったのはアフガニスタンです。ニューギニアで見た景色は紀元前一万年を彷彿とさせました。アフガニスタンに行った時は13世紀に戻ったようでした。

■旅行にはどのように行かれるのですか。計画を立てて行かれるのですか。

ある日ここをあるバスが通っていて、そのバスにはアラビア文字で「ミハン・ツアー」と書かれていました。バスを追いかけると、そのバスはラーレリで止まりました。運転手とペルシア語で話しました。タブリーズ・イスタンブル間を走っているそうでした。「私も行きます」と言いました。運転手は「中でチケットを買え」と言いました。3日後にはイランでした。イランは私が最も気に入った場所の中の一つです。そこからイスファハーン、シーラーズ、テヘランなどと言っているうちにアフガニスタン、パキスタンに着きました。私の旅行のほとんどはこんな風でした。机に向かって「よしここに行こう」などという計画は立てた事がありません。マレーシアに行ったときだけ、計画を立てました。あと、東へアシスタントとしてエラズーに行った時です。1983~1984年には南・東アナトリアを細かく回りました。

■テクノロジーのことは今でも嫌いですか。

テクノロジーにはなじめないし、好きではありませんが、仕方がありません。女性や学生の要望から逃れられないのです。ある学生が私に携帯電話をくれました。「先生はクルクラーレリにお住まいですよね。遠いです。絶対に携帯電話を持ってください」と。しかし私はそれでもあまり携帯していませんし、使っていません。これ以外にも、好きではない、望まない結婚のように、強制なのです。離婚できないのなら嫌でも一緒に歩くでしょう。私はまだ全て手書きですが、嫌でもパソコンで清書しています。

■なぜテクノロジーがお好きではないのですか。

自分で自分を疎外することになるからです。あなたがやりたくないありとあらゆる事をやらされるのです。圧力をかけられ、どうしようも出来なくなるのです。何かというとパソコンはすぐ壊れてしまいます。最近の車では窓すら開けられません。運転手がいなければ何もできません。こんなにひどい事はありえますか。私はずっと車の中の空気に慣れることが出来ませんでした。窓は開けっ放しにして、腕は外に出し、外の空気が入ってくるようにします。私は空気気違いなので、外の空気を吸わないといけません。一年中寝る時は窓を開けておきます。

■あなたというとパイプが印象的ですが。何年間吸っているのですか。

45年間吸っています。私はあのパイプがあるのに山に行きました。最後に登ったのは2006年のモンゴルです。しかしいつでもやめられると思っています。ラマザン中は1カ月間吸いません。どうしても吸いたいとおかしくなってしまうような事はありません。タバコが吸えずに鬱になってしまう人もいますが、私はそのような事はありません。

■哲学辞典を書いてらっしゃいますね。アルファベットのどこまで進みましたか。

哲学辞典はEに入りました。Dは終わっています。終わったら第1巻を発行します。

■現在、クルクラーレリ大学で文学部の学部長を務めてらっしゃいますね。お仕事はどうですか。

クルクラーレリで哲学科を設け、トルコ初となる試みを実現しました。4大哲学言語を選択必修科目にしました。学生はアラビア語、ラテン語、ギリシャ語、ドイツ語のうちから一つを選びます。そのうちその言語で文章を読めるレベルにまで至ります。ロシア語も開講しました。大学の全ての学科の学生がこの授業を取っています。他の目標もありましたが、トルコでは無理でした。

■アフガニスタンのトコジラミ(南京虫)

テオマン・ドゥラル教授がアフガニスタンのトコジラミ攻撃に遭った話は非常に面白い。
「アフガニスタンの中央部にバーミヤンという場所があります。最初の夜をある喫茶店で過ごしました。人の上をガサガサとネズミが行き交っていました。私も何の悪戯なのかフランス人作家のペストという名の小説を読んでいました。そのようなネズミを見ると怖くなりました。バーミヤンに入った時に最初に見たものがベンチの上に横たえられた死にかけのヨーロッパ人だったからです。翌朝私たちを連れてきたランドオーバーの運転手が私たちを乗せるのを拒んだため、バーミヤンに留まることになりました」

「私は他の喫茶店に移りました。床で寝ました。朝になると恐ろしいかゆみが私を襲いました。『ああ、何か病にかかったんだ』と私は言いました。なぜなら外から来た人たちが病気になる確率はとても高いからです。同じ日に『デルディ(バンディ)・アミール』と言われる砂漠の真ん中に5つの湖があり、そこに行きました。最初の目的は水に入ることになりました。水は赤く染まりました。血と小さなトコジラミの死骸です。そこで、この炎症とかゆみはトコジラミのせいだと分かりました。その後全ての洗濯物と荷物、寝袋、かばんを水につけると、全てからトコジラミが出てきました」

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( 翻訳者:南澤沙織 )
( 記事ID:21193 )