電子メディアがエジプトの蜂起を作り出す
2011年02月07日付 al-Hayat 紙

■電子メディアがエジプトの蜂起を作り出し、視覚、文字メディアが混乱のうちにそれに続いた

2011年2月7日 『アル=ハヤート』紙

【カイロ】

「新しいメディア」がかの有名な「フェイスブック」と「ツイッター」をとおして前チュニジア大統領ベンアリーを排除した後、ここではムバーラク・エジプト大統領の椅子を激しく揺り動かしている。チュニジアの「ジャスミン革命」とエジプトの「怒りの革命」は基本的には似ているが、両者は細かい所では異なる。とはいえ、二つの革命でもっとも顕著なのは、情報に関する新しい事態に体制が対応できずにいたその度合いが反映されているという点である。

先月25日に始まったエジプトの蜂起に関してはさまざまに異なる政治的見解があるなか、エジプトのメディアも世界のメディアも同じく、通りの人々の鼓動を伝え、意見を表明しあるいは反論する余地を広げた。こうしてメディアは間接的にではあれ、闘いの当事者となったのである。そして「報道管制」、「レッドライン」、「高度な国家的利益」、「報道対象外」という銅像が崩壊していくことになる。

政府に対し社会的、政治的正義と自由を求め、かの有名な「フェイスブック」をとおしてデモが組織され、そしてタハリール広場へ何千もの人々が向かうことでこのエジプトの抗議行動は始まった。この出来事は、最初はエジプトのテレビでも世界のテレビでも大して報道されなかった。ただしジャジーラは除いて。ジャジーラは何時間もの時間をこの示威行動に充て、結局それは1月25日に革命となったのだ。その時ようやく、誰もが気づいた。広場での展開およびエジプトそして国際的な姿勢の展開に焦点を当てた昼夜を問わない集中的な報道に。それはまずジャジーラ、そしてアラビーヤ、BBCArabic、フッラ、フランス24、CNNなどの報道チャンネルの関心を惹きつけた。展開の早いエジプトの現場を追うために、アラブ世界でも、それ以外でも他のニュースがほとんど空になった。

バランスの欠如と中立性のなさ。これが蜂起の間、アラブの報道チャンネルにまとわりついた疑念だ。次のように見る者がいる。ジャジーラ、フッラ、BBCArabic、フランス24は、アラブ世界に不安定さと混乱状態を引き起こすような発言をする反体制勢力のゲストを招き、火に油を注いていると。またそれとは別に次のように見る者もいる。アラビーヤの報道は相反する意見を両方とも出すことで当初はバランスがあったが、蜂起の三日目から変わっていったと。

「人々は現体制の退陣を望む」、「出ていけ」、「エジプトは自由」、「革命、勝利に至るまで」。これはデモ参加者が掲げたスローガンであり、報道チャンネルはそれらに関心を払った。たとえばジャジーラは「エジプトが自らについて語る」というスローガンを伝える一方、アラビーヤの画面は「エジプト、危機」と出す。ジャジーラとエジプト政府の関係は数年来、良好ではない。というのはジャジーラはいつものように真実を暴きだそうとして譲らないのに対して、エジプト政府はジャジーラが内部分裂を煽り、エジプトの現体制を攻撃し、間違った情報を流そうとしていると見ており、それによってカタルとエジプトの間に政治的な危機が生まれていたのである。そのため、エジプト情報省はカイロのジャジーラ事務所を閉鎖し、特派員の許可を取り消し、またエジプトの人口衛星ナイルサットで中東の一部地域へのジャジーラを放送することを中止した。しかしジャジーラは新しい周波数を出し、それと同時に広場の人々は広場に大きなスクリーンを二つ立てた。それはジャジーラ、および抗議行動を中継するジャジーラ・ライブを観るためである。

エジプトの国営テレビは、激しく攻撃された。なぜならば、1月25日のデモを無視し、抗議行動に揺れていたナイル岸のコルニーシュとタハリールのうち静かな一角を突出して見せたからである。さらには平穏化を求める知識人、芸術家、政治家の声を伝えるのに時間を割き、ムバーラク大統領支持派のデモに光を当てたということもある。こうしたことによって、(反体制派の)デモ参加者はデモの事実を知らしめ、自分たちの声を国民に届けるためには外国のメディアに頼らざるを得なくなったのだ。この結果、エジプトの国営テレビのある女性アナウンサーが辞職した。彼女はこう言う。ムバーラク大統領辞任を要求する巨大な抗議行動を報道するにあたって、テレビ局は「職業倫理を喪失した」と。また彼女の前に、ジャーナリストのマフムード・サアドがデモと連帯するためにテレビ局を辞している。彼について言うと、市民の救援依頼に応えたことに加え、事態をコントロールしようとしたこと、国民に平静を保つよう呼びかけたこと、軍の声明を何よりもまず先に報じたことも彼の功績となっているのだが。

(中略)

違和感を禁じ得ないのは、(政府系の新聞である)アル=アハラーム紙の1月26日のトップの記事がレバノンにおける抗議行動とデモであったことだ。レバノンでの抗議行動の記事が一面の大きな場所を占めた。そのとき、「怒りの日」のデモは、火のついたカイロそして警察から逃げようとするデモ参加者の写真をつけた小さな記事にしかならなかった。また購読受け付けは停止し、ほとんどの紙面から広告が消え、スポーツ、芸術その他の記事は大幅に縮小した。

こうした展開が見られるなか、アハラームの若手ジャーナリストたちはひとつの声明のなかで、次のようなことを求めた。それはアハラーム紙の国家からの解放、編集長であるオサーマ・サラーヤの辞任、デモ参加者の要求の受け入れである。

ムハンマド・ハサネイン・ハイカルは(独立形の新聞である)アル=シュルークにこの危機についての一連の記事を書き、そのなかには「安定という迷信の崩壊」、そして「自由な国民へのエジプト人の移行」という記事があった。またイギリスやアメリカの新聞は事態の展開に大きな紙面を充て、エジプトの未来についての分析を行った。一方これらの新聞のウェブサイトは、とくに火曜日にカイロとアレキサンドリアで100万人デモが宣言された後、事態をライブで追っている。アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は次のように書いた。「ムバーラク大統領に退陣を求め権力の座から去るようにと数10万人のエジプト人がタハリール広場に集まっているなか、国営テレビの二つのチャンネルは、張りつめた空気のカイロの町のなかにある静かな一角の光景を伝えようと、カメラをカイロの橋に向けているのだ。」

(後略)

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( 翻訳者:八木久美子 )
( 記事ID:21392 )