Taha Akyol コラム:エルバカンの残したもの
2011年02月28日付 Milliyet 紙

「2月28日過程」事件から丁度14年、歴史の証言者・エルバカン氏は死去した。まずは故人の冥福を祈り、親族・友人の方々へお悔やみ申し上げる。
私は故エルバカン氏とは親しい間柄ではなかった。彼を取り上げるときはいつも批判した。
唯一の例外は「2月28日過程」の時である。当時私は軍を批判し、軍の介入や指導、国家諸機関の軍国主義化に異議を唱えた。
今日は、エルバカン・ホジャ(エルバカン師)を敬意を以って偲ぶとともに、彼がトルコ政治に残した功績についてお話しよう。

まず、エルバカン氏は間違いなく紳士であり、笑顔の絶えない人物であった。癇癪を起こしたり物に当たり散らしたりなどの、粗野な振舞いを見たことがない。この特徴は彼の人間性のみならず、イスラーム復興運動の武装化を防いできたという観点からも重要である。

■イスラームと民主主義

エルバカンが我が国の政治史に残した第2の功績は、高まるイスラーム主義を議会民主制の枠組みに収め、調和させたことである。1980年以前の武力衝突にミッリー・ギョリュシュの支持者が加わっていたらどうなっていたか考えてみてほしい。

イスラーム世界において、イスラーム主義的傾向の高まりが同時に過激化を意味するようになる中で、トルコのミッリー・ギョリュシュは民主主義に留まった。「福祉党(RP)支持者が武装している」というデマは、「2月28日過程」における世俗主義体制派の精神的なキャンペーンスローガンであった。民主主義とは否応なしに様々な「基本原則」の提起を伴うものである。スカーフを被らない女性が政党執行部に加わったのは、エルバカンの時代だった。

■トルコの一体性

エルバカン氏が残した第3の功績は、クルド人保守層の支持を獲得し、民主主義体制に統合したことである。

クーデターを恐れ、各政党は軍部の意向に沿った連立体制を築いてきたが、これらの政党は全て、トルコ東部・南東部においてはクルド労働者党(PKK)の前に無力だった。一方、エルバカン氏は硬直的な世俗主義を批判することでクルド人保守層の支持を獲得し、民主主義体制への統合に成功した。

この事実は、世俗主義体制派の思考がいかに硬直的であるかを表している。
学術的な歴史研究者から見れば表面的であったが、「スルタン・アルパスラン、スルタン・ファーティフ」を強調したエルバカン氏の発言は政治的に重要な意味を持ち、共通の歴史認識を生み出すことに成功した。

■産業社会

他国のイスラーム復興運動と比べ、エルバカン氏の運動の優れた点は「重工業」の概念にある。空想的、無計画で無責任…。確かにそうだったが、「産業、社会、発展」の概念はそれ自体が「世俗的」なものであり、これらは「機械」としての機能に留まらず、社会へ非常に大きな影響を与えた。
そのすぐ後には、必然的に経営、財政、市場、対外開放といったより大きな概念が続く。
これらの概念は、イスラーム思想と現代的な生産、組織メンタリティとの融合の、すなわち合理化の鍵である。

■ノスタルジックな敬意

エルバカン氏はイスラーム思想において、民主主義を含めたこれらの概念を提唱したが、その成果は本人の予想以上に大きなものだった。公正発展党(AKP)の出現に対して、エルバカン氏ほど驚いた者はいなかったに違いない。

オザル政権の改革は、トルコ全土で変革のダイナミズムを生んだ。このため「アナトリアの虎たち(アナドル・カプランラル―注)、エンジニア、インテリ、学者、スカーフを被った女流作家、そして、多くが「ムスリム・ブルジョワ」に属するミッリー・ギョリュシュの支持者でさえ、ミッリー・ギョリュシュを既に窮屈に感じている。しかしそれでも、(エルバカン・)ホジャにはノスタルジックな敬意を覚えるのだ。

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訳者注:80年代以降、顕著な経済成長を遂げたトルコ各都市で成功を収めた実業家を指す。

(本記事はAsahi中東マガジンでも紹介されています。)

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( 翻訳者:山根卓朗 )
( 記事ID:21663 )