メフメト・アーキフ・エルソイの生涯、映画化へ
2011年03月10日付 Radikal 紙

『一人の英雄メフメト・アーキフ・エルソイ』という伝記の著者であるアブドゥラフマン・シェン氏は、詩人メフメト・アーキフ・エルソイの自伝映画を撮り、没後75年にあたる12月27日に公開予定だと述べた。

ジャーナリスト兼作家のシェン氏がアナトリア通信(AA)記者に行った説明によると、2011年はメフメト・アーキフ・エルソイ年と定められ、このため各関係機関が様々なプロジェクトやプログラムを行うために活動しているとのことだ。シェン氏は、若者らがネガティブな事件の影響で、歴史にさらなる関心を示し、歴史を身近のものと考えており、(自分は)歴史を知るために様々な研究を行っていると述べ、若者に質が高く、良く、申し分のない作品を与える必要があり、この点で国の役割は大きいと強調した。

シェン氏は、首相府と文化観光省も、メフメト・アーキフ・エルソイ年のための活動をしており、また活動に関し、彼自信と協議がなされたと語り、次のように述べた。
「私たちの意見としては、必ず後に残るようなことを行うつもりなのです。エルソイのような人々を説明する際に、つまり自伝的なものを作り上げる際において、映像上の視覚効果の全てを放棄しなければなりません。こうした点でアーキフについて素晴らしい脚本が書かれなければなりません、演じられなければなりません。私たちも3年間メフメト・アーキフ・エルソイの人生を映画化するために準備しており、もう現在は最終段階にきています。うまく行けば、今年中にアーキフの人生を紹介する映画を撮り、没後75周年である12月27日に公開することを計画しています。とても素晴らしい作品になると思っています」

シェン氏は、1873年にファーティフ地区サルギュゼルで生まれたメフメト・アーキフがその時代の宗教的そして実証的科学をとても良く学んだと述べた。更に彼はオスマン帝国末期から苦悩の共和国への過渡期における「最も
良い目撃者」の一人であり、体験した困難多き時代を作品に最も上手く反映させた詩人であり、『サファハト(訳注:エルソイの7巻からなる詩集の総称)』を読む人々は、オスマン帝国の崩壊の理由と共和国建国以前、どのような段階を踏んで建国に至ったのかをすべて知ることができると話した。

シェン氏はアーキフが文学の世界で優れた観察者であったと述べ、次のように述べた。

「彼は観察したことを皆が分かるように、町のコーヒーハウスで話すかのように、気楽に、詩的に表現した芸術家です。彼の幼少期、青年期は、オスマン帝国の崩壊時期と重なるので、国土の喪失がおこり、国土の喪失がオスマン帝国の人々に大きな痛手を与えたことを我々は知っています。メフメト・アーキフの人となりは、ほぼこの状況で生まれ、形成され、形を作っていっています。好むと好まざるとに関わらず体験した苦悩は作品に映し出されています。そのためアーキフの作品では国民の感情、国民の熱狂、大きな悲しみも見ることができます。アーキフの作品では、国民、祖国、国家、国旗への思いのほかに悲しみも支配的であります。これらの感情を、それほど良く表現した人はいません。おそらくより大事なのは、これほど率直に描いた人は他に誰もいないということです」

■「駆け引きなく、率直に、心から、ただ祖国だけを考えている」

 シェン氏は、エルソイが「なぜもっと感情的な詩を書かず、家族のこと(プライベートのこと)をあまり考えなかったのか」という質問に対し、「祖国存亡の危機であったため、それらを考えるような時ではなかった」と答えていたと話した。そして、「そのような状況でも駆け引きせず、率直に、心から、ただ祖国だけを考えている。メフメト・アーキフの話や説明から見てとれるこうしたことは、ただ一つの考えによっているということです。彼も『信仰の必要性とはこれなのである。祖国のためにあらゆることをしなければならない。このことを駆け引きしたりしてはいけない』と言っている。特に共和国建国後、すぐアンカラ政府に近づき、地位を掴もうとした人たちを見てきました。アーキフはというと、イスタンブルが占領された時期、独立戦争を支援しましたが、それに対する見返りを期待しませんでした」と話した。

シェン氏は、エルソイは第二次議会に国会議員として任命されることはなかったと話した。また、その当時国会議員は、(選挙ではなく)任命によりその職務につけたと述べ、「彼はイスタンブルに戻り、雑誌を出そうとしていました。しかし、当時の状況を振り返ると、施行された法により出版社のほとんどは閉鎖されていました。出版社が閉鎖されていれば雑誌を出すことができません。また、他の役職もエルソイが望んだものではありませんでした。彼は望みが絶たれ、エジプトで教壇に立ち始めました」とも話した。

シェン氏は、メフメト・アーキフが1925年から1931年の間エジプトで暮らし、カイロ大学で教壇に立ったことを話し、その時期を次のように説明した。

「エジプトでは苦労しました。彼自身は何も望んでいませんでしたが、彼の近くにいた人々はいろいろなことを言っています。「独立行進曲」に対し払われた500リラのお金を貰っていたなら、最後まで快適にくらせたでありましょうになどと。彼は「国歌をつくったからといって金はいらない」と言い、お金を貰うのを拒みました。また、雑誌を刊行できず、記事を書くこともできなくなった詩人にとって、他人に助けを求めることは、ふさわしくないことでした。彼は経済的な問題によりエジプトに行きました。しかし心が傷つけられました。こうしたことはメフメト・アーキフだけでなく、全ての人に影響を及ぼしたのです。

ただアーキフだけが苦労したと言いたいのではありません。施行された法により他の皆のように彼も雑誌の刊行を停止しなければならなくなりました。その時期、何らかの地位を得たいと思った人々がアーキフを苦しめていたということについて、いろいろ私たちは読んでいますが、これらもアーキフの苦労となり、彼を悲しませています。彼の価値が理解されなかったと言うことも可能でしょう」
シェン氏は、エジプトで病気になったアーキフは11年後の8月に祖国に帰り、そこで治療を受けたが12月27日に亡くなったと話し、アーキフが亡くなった理由には祖国への思いも影響したと考えていると述べた。

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( 翻訳者:畔上曜子 )
( 記事ID:21786 )