コラム:クルド問題の危機的状況
2011年03月23日付 Radikal 紙

社会的事件、抗議活動、祝賀、それらがある度に、クルド人と国家の間により一層大きな隔たりが生じてしまう。

これは悪循環だ。ノールーズ祭(イラン暦の新年)、言うまでもなくアブドゥッラー・オジャランの生誕日、PKK(クルド労働者党)のエルフ攻撃の記念日が来る度に、クルド地域で行われている社会的デモに参加するクルド人の数は増加し、毎年より多くのクルド人の若者や少年が広場に集結している。広場に集結するクルド人の数が増加すればするほど、同地域の社会的デモでは、常に「不釣り合いな武力」に訴える傾向のある警察が、さらにその行動を加速させていく。
いつもどこかで、警察がデモ隊に許可を与えず、デモ隊は怒りを抑えきれずに暴力に訴え、警察は権限を越えまるで(デモ隊を)テロ(として)攻撃する。そして事件が起こり、通りが戦場へと変わっていく。デモがある度に刑務所には新しい「TMK(テロ対策法)の犠牲となった少年たち」が収容されていく。刑務所内の収容者数と共に刑務所の外にいる少年の怒りもますます増している。社会的事件、抗議活動、祝賀がある度にクルド人と国家の間の距離は広がっていくのだ。

■新しい要求

この図はクルド人の政治行動が国家に対し日々新しい政治的要求を加えていく原因となり、クルド問題の解決をより困難なものにしている。国がクルド人を「手なずける」ため粗暴な暴力に訴え違法行為を犯す度に、クルド人の政治行動はその基準を引き上げているのだ。数年前までは議題にも上らなかった新しい要求がクルド人のリストに加えられている。以前は刑務所にいるPKKの同胞の釈放と山岳地帯にいる者たちの「名誉ある和平」による故郷への帰還確保を要求していたのが、(今では)2006年以降TMKの犠牲となった少年たちや2009年から現在に至るまでKCK(クルディスタン社会連合トルコ議会)で逮捕されたクルド人政治家・活動家の釈放をも要求している。政府が公正な裁判を行う権利や、言論・表現、組織化の自由を軽視するような法整備を行えば行うほど、警察がその法により付与された並外れた権限の行使において過剰になればなるほど、そして司法裁量権が容疑者を刑務所へ入れて何年もの間拘束し、裁判にかけるために利用されればされるほど、刑務所内のクルド人の数はますます増加する。同地域で暮らすクルド人は、何十年もの間、自らが定めた法律に従わず、今や当たり前となった(クルド地域における)「非常事態」を受け入れ続けるトルコ国家が、結局変わらず、これからも変わらないであろうという認識を持っている。一方で、民主化と人権がどれほど発展しようとも、クルド人には常に暴力に訴える傾向があり「心を入れ替えることはないだろう」という考えがクルド地域で任務を行う首長や警察、治安部隊の間で共有されているのが見受けられる。毎回集団デモは、クルド人と国家の相互認識を確認しあう可能性を生み出しており、結果としては、両者とも自身を正当であると見なし、二者間の距離はより広がっていくのだ。

■総選挙が近づくほど

政府が中身が空っぽの「クルド問題の解決」に関する隠れた意図の実践を選挙後に引き延ばしたことは明白だ。問題は、遅れれば遅れるほど解決されるはずの問題が複雑化していくということだ。政府は問題の解決が始められたとき、それまで取り上げられなかった要求にも直面するだろう、しかしその最も根本的な原因は公正発展党(AKP)自身の政策が作り出した新しい問題なのだ。何百人ものクルド人政治家と市民社会メンバーが逮捕されたKCK裁判は、今日ではそれ自身が独立した問題となっている。
総選挙が近づく中で、この裁判のどの公判も、新しい大規模デモの口実となり得る。(KCK裁判の)被告の勾留が続くほど、AKPが同地域で行う議員候補の選挙キャンペーンは、憤った(クルド人)集団の標的となる危険性を帯びることになる。被告のうち何人かが平和民主党(BDP)によって無所属議員候補として発表されることは、総選挙とKCK裁判との関係性をより深いものにしている。以上のことからわかるように、我々はこの先クルド問題だけでなくKCK裁判についても今よりもっと議論することになるだろう。

(本記事はAsahi中東マガジンでも紹介されています。)

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( 翻訳者:釘田遼香 )
( 記事ID:21918 )