Taha Akyol コラム:スカーフの有無より、女性候補を
2011年04月06日付 Milliyet 紙

伝統主義的なイスラム派の重鎮の一人でアリ・ブラチ氏は、「今回の選挙(6月の総選挙)でもスカーフを被った国会議員を望まない」と、その新聞コラムで書いた。スカーフ禁止に反対する女性たちが推進する、「スカーフを被った候補者なしでは、投票もなし!」運動を不快に思ったらしい。

ブラチ氏によれば、「ジン(精霊)たちは今回、誠実な女性たちを使って公正発展党(AKP)に新しいわなを仕掛け」ていたらしい。AKPを解党するために!ブラチ氏によれば、選挙後には、「新しい市民的な憲法ができる、そうすれば皆さん同様、スカーフを被った方々も安心して暮らせるようになる」、というのである。

私はこうした「ジン(神霊)」がどうしたとか、「わな」がどうしたというような陰謀説を信じない。こうした女性たちそれぞれが単に道具であるとも思わない。しかし、この政治的問題よりもさらに重要なのは、ブラチ氏による別の批判である。

ブラチ氏によると、「スカーフを被るグループのなかの中心的な女性たちは、スカーフの宗教的な意味を骨抜きにして、「人権」にすり替えてしまっている。スカーフを、「地方政庁や中央政権での仕事を獲得し、様々な機構・組織における地位を無理やり奪う手段」にしてしまったている、というのである。(4月2日付Zaman紙)

■変わる女性たち

スカーフ着用の女性作家ニハル・ベンギス・カラジャ氏は、すぐ翌日(4月3日)にアリ・ブラチ氏を批判する記事を発表した。(4月3日付Haber Türk紙)これにヒラル・カプラン氏が続いた。(4月4日付Yeni Şafak紙)
2人の作家は、いずれも私が評価し尊敬する人たちである。ブラチ氏を批判するなかで、彼女らは、家で「主人の靴下を洗っている」、あるいは「私は分からないので、主人に聞いて」と言うような女性像に反対して、教育を受けた、職業やキャリアを有する女性のタイプの存在を主張している。

(1997年の)「2月28日過程」の頃に、カナル7TVの番組でメフメト・シェヴケト・エイギ氏は、「ムスリムのフェミニスト」である、ヒダーイェト・シェフカトリ・トクサル氏をしてものだった。「あんたはまず礼儀をわきまえて座ることを学びなさい!」と。トルコでのスカーフ着用の自由、及び女性の権利闘争で活躍していたヒダーイェトさんは、両足を組んで座るような人だった。エイギ氏のいう「礼儀に反した」態度とはこのことだ。イスラム派の女性自身の変化は、もちろん政治的状況の変化よりも遥かに重要である。

■現代化の象徴

私は、ずっとスカーフ着用禁止に反対してきた。(1997年)2月28日に軍を批判する際に述べた私の基本的な理由のは、次のことだった。スカーフ着用は政治的反動ではなく、現代化の象徴である!

私は、我々の祖母たちが被っていたのとは全く異なるスカーフ姿は、宗教的な人々の間においては「地方(田舎)に対する都市化、現代化への参加、そして伝統性からの解放」の象徴であると書いた。(2002年1月18日Milliyet紙)。

女の子は勉強し、大学を卒業し、さらには修士、博士まで進学するだろう。それにもかかわらず、あなたは彼女に、服装や態度においては「お祖母さんの、お母さんのようになりなさい」と指図するのだろうか!
軍や、高等裁判所が政教分離の名の下、求めていたのは、こういうことである。現在、共和人民党(CHP)のスヘイル・バトゥム氏は、この古い言説を繰り返しているのだ・・・。「伝統」の名の下、一部の保守主義者たちもこのことを言っているのだ!

■平等の要求

教育、都市化、キャリア形成といった現代化の諸要因から成る価値観が彼女たちに与えた最も大きな影響は、平等思想の発展である。女性運動が活発化したのもこのためである。スカーフを被った女性が進学を希望することも、国会議員になることを望むことも、当然のごとく現代的な平等の要求によるものである。私は、これらのことを支持している。スカーフを被っていようが、いまいが、そんなことはさておき、国政選挙や、地方選挙、県議会や商工会議所で多くの女性が選ばれますように・・・。彼女らは、何百万もの女性の同胞にとって良い手本となるだろう。

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( 翻訳者:石川志穂 )
( 記事ID:22039 )