Oral Calislar コラム: イギリス王室結婚式にオスマン王家を考える
2011年04月30日付 Radikal 紙

イギリスでの結婚式を何百万もの人々と同様私も関心を持って見た。ダイアナ元妃に言及された際には感動した。母を失って成長したウィリアム王子の目の中には幸せがあふれていた。

実は私は数日前までアフガニスタンにいた。イギリスの壮麗さが世界中のテレビで生放送される一方でアフガニスタンの貧困や混乱を忘れることは不可能である。もちろん、イギリスの壮麗さの背後に植民地から奪われた富もあることを、人類は忘れてはいない。

イギリスも含めEUやヨーロッパの先進国の多く(スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、スペイン)で王政が続いている。これらの国の人々が人権や民主主義の基準の最も進んだ模範となっていることは、おそらくある逆説として私たちの前に留まり続けている。

トルコ共和国の宣言過程には2つの重要な転換点があった。1つ目はスルタン制、すなわち帝国の廃止、2つ目はカリフ制の廃止である。共和国の創設者たちの間に存在した最も深刻な議論と分裂の根底には、この2つの転換が大きな割合を占めていた。

ムスタファ・ケマルが共和国を宣言した際、直近の同僚たちにも知らせず彼らに対して「サプライズ」を行ったことが知られている。特にカリフ制の廃止については、より深刻な分裂が生じたことも知られている。
しかし、これらの議論はその後は続かなかった。「独立戦争」の指導者メンバーの多くが政治から駆逐されたからである。このためムスタファ・ケマルが決めた新しい政治と歴史理解だけが体制を支配した。

独立戦争の主導者ムスタファ・ケマルは「オスマン帝国の腐敗」という評価から出発する。基本的なストーリーは、「崩壊し、零落し、乾パンすら不足する状態になった体制から、若くダイナミックな共和国を作る」という形のものであった。
この評価は、ある面で正しいが、別の面では議論も必要である。オスマン帝国は、1910年代まで世界的な帝国であり大国であった。各種の問題や議論されるべき面はあったが、先進的な国家の伝統を維持していた。当時ですらオスマン帝国が行ったあらゆることは、世界的にニュースとなるだけのものであった。

本当の意味での大きな崩壊は、おそらく、統一と進歩委員会執行部がオスマン帝国の市民であるアルメニア人を1915年に追放したプロセスで始まった。150万人がアナトリアで故郷を追われ、追放の道中で命を奪われた(行かなかった人々も身元を隠さざるを得なくなった)という面をもつこのプロセスは、この地域のバランスを大きく変えた。生産的で、高い教育を受け、組織的であった大きなコミュニティが失われ、社会経済的、文化的蓄積から遠ざかった。

第2のステージは、1923年のローザンヌ条約によって150万人のギリシャ系住民が土地を追われ追放される原因となった「住民交換」である。8年間の間に起こったこの2つの出来事で、アナトリアの人口のほぼ半分(そして、全部ではないが、もっとも高学歴で/生産的な部分)を占めていたコミュニティは、この土地から失われ、姿を消した。アナトリアは、1950年代までこの大きな崩壊の影響下にあり、回復できなかった。

これらの歴史的プロセスを、異なる視点から眺めてみると、異なる図式が現れてくる。

ウィリアム王子の結婚式を見ながら、「オスマン帝国のスルタン制が続いていたらどうなっていただろう、私たちはもっと遅れていただろうか」と考えずにはいられなかった。共和国を救済と発展のシンボルとして見るアプローチは、奥深く健全な歴史の見方といえるだろうか?歴史を再解釈すること、どのような歴史叙述も絶対的な真実を述べるものではないと意識することは、本来、世界のあらゆる社会で必要なことではあるが、特に今の私たちにとって、非常に必要なことである。なぜなら、この国の公式の歴史に書かれたことと起こった事実の間には、完璧な断絶があるからである。

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:22377 )