Nuray Mert コラム:「名誉の試験」―エルドアン首相の攻撃に答える
2011年06月07日付 Milliyet 紙

【訳者注】6/5のNuray Mert のコラムを受けて、エルドアン首相は選挙集会で「東部への投資に反対するものがいる」として批判した。このコラムは、それを受けたもの。

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なによりまず、エルドアン首相が私に向けて行った批判の演説に対し批判の意思を示してくれた皆さんに感謝したい。この反対は、私個人、あるいはいつも私がいっていることへの賛意ではなく、なによりも、文化的、民主的態度からの批判だと理解している。そうでなければ、エルドアン首相を怒らせた私の発言に対して、思想的には、少なくとも首相と同程度には反対の立場にたつMHP党首が擁護してくれたりはしなかっただろう。バフチェリ党首は、思想的には彼と正反対の考えを私が述べる権利を認め、議論のルールを人々に想起させたのだ。

私が何をいったかを、改めて確認しておこう。私は、首相が好きな「二車線道路」に特別に反対しているわけではない。デルスィム会議の場でも発言し、また、先の日曜日のコラムでも書いた私の見解は、首相の考え方に対する批判であった。会議での発言で私が引用したのは、サバフ新聞に載った、国境地域=(クルド人居住地域)の安全保障をダム建設によって作り出す、という彼の計画に関する記事だった。この考え方を、「デルスィム粛清事件」の前に、その地方で道路工事がさかんに行われたことに関係づけた。道路、といってのは、本物の道だけではなく、安全保障に係る公共投資のことをいっている。この意味で、「力の政治」と「道路建設の政治」は同時に進行する。

■もう一度くりかえそう

私の考えでは、トルコはクルド問題を、安全保障という考え方では解決することができなかった。これからもできない。首相が、道路建設をもちだしたので、それについてもいっておこう。道路や観光開発のような「住民サービス」だけでは、この問題を解決はできない。地域の人々がこの手の住民サービスに浴するのは当然の権利であって、それを、恩恵のように差し出されることに、そもそも違和感を感じる。

いうまでもない。クルド問題は、アイデンティティ、人格、尊厳の問題なのだ。アイデンティティ、人格、尊厳に対し、これほどの侵害が行われ、その犠牲を払ってきた「社会的集団」に対し、「道や投資をするから、それで何とかしてくれ、金儲けのできるクルド人になってくれ、名誉のための戦いなんて無駄だ、物のわかるクルド人になれよ、そうそれば我々も君らを許してやろう」というような態度をとることは、心を傷つける。クルド政治運動が現政権に対し次第に反発を深めていることの背後に、目に見えない、暗号のような理由を探す必要はない。こうした住民サービスの提示を、彼らは、名誉を傷つけるものだと感じているのだ。

つまり、状況は非常にはっきりしている。その目が権力というカーテンで覆われていない、その心が権力という欲望に凝り固まっていない人なら、だれでも、この現実を理解できるだろう。いや、理解しなくてはならない。この地で生きるトルコ人もクルド人も、すべて、汚れたそろばん勘定、取引、暴力闘争のかわりに、名誉ある平和を選ばねばならない。これは、クルド人にとってそうであるだけでなく、トルコ人、そして、この国で生きる全ての人にとっての、「名誉の試験」となるプロセスなのだ。

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( 翻訳者:トルコ語メディア翻訳班 )
( 記事ID:22805 )