Fehmi Koruコラム:サッカーはもはやただの「サッカー」ではない
2011年07月04日付 Zaman 紙

フェネルバフチェのようなチームがチャンピオンになるために八百長をするのか?

いや、おそらくしないだろう。してはならない。「八百長」は「スポーツ」と共に用いるべきでない、正反対の言葉なのだから。

私が、今年それぞれ異なる5つの部門でチャンピオンとして名前を刻んだフェネルバフチェのファンだからこう言うわけではない。フェネルバフチェを応援する理由は「私のチームは八百長をやらない」という事実にほかならない。八百長によって得た勝利や優勝は「勝利」、「優勝」とは言えないというくらい、私はスポーツというものは「ジェントルマンな仕事」だと思っている。優勝杯が1つなくてもいいじゃないか。とはいえ、いずれにしてもフェネルバフチェ博物館には、選手たちのチームへの尽力、監督はじめ執行部の努力、そしてファンの熱狂的なサポートによって獲得した優勝杯がところ狭しと並べられているのだが。

それはフェネルバフチェだけではない、同じ理由でガラタサライ、ベシクタシュJK、トラブゾン・スポルも八百長はしない、したことがないであろう・・・

別の理由としてはこうだ:サッカーは世界に最も開かれたスポーツの1つだ。人々は単に自国のチームがどうしたか、というだけではなく、他の国々で生じたことについても興味を持って観察することができる。チームにしても、あらゆる地域からの選手をチーム内に迎え入れている。このように複雑な関係があるなかで、サッカーという一分野が世界規模で八百長を企てることは、非常に馬鹿げたことである。

しかしながら、こうした馬鹿げたことに、時に陥ってしまうことも私たちは知っている。イタリアの巨大チーム、ユヴェントスは2006年、八百長を理由に降格処分すら受け、ミラノとフィオレンティーナは間一髪のところで降格を逃れた。裁判所はユヴェントスが2年に渡って相次いで獲得した優勝を取り消した。

私もイタリアで暮らしていたならば、「ユヴェントス、ミラノ、フィオレンティーナは決して八百長はしまい」と言っていただろう。

八百長行為を「馬鹿げたもの」と私が受け止めるのは、スポーツマンシップ、フェアプレイの精神に反するから、というわけではない;今日の世界では過ちを容易に隠せないと分かっているからだ。

お金は(気配を)におわせ、人は話す。八百長行為はこの2つの普遍的なルールを無視しなくてはならない。八百長の見返りに受け取る金は人々の目から隠すことはできない。多額の金は必ずやその存在を知らしめてしまうものだ。
また人々の口をふさぐことはできない。八百長取り引きをする際に科学技術によって捕らえられなかったとしても、その後、人々のおしゃべりを通じて八百長行為があったことはわかってしまう。

科学技術の発展や人間の知性が豊かになったことにより、一般的な意味でスポーツ、あるいはサッカーはより多くの人々に注目されるという特徴を得た。プロフェッショナルなサッカーは何十億ドルのお金が動く部門へと変わった。サッカークラブの多くは、同時に今日、株式市場で取り引きされる一企業であり、この意味でも金の動きを隠そうとしても限度がある。

こうしたあらゆる事実にもかかわらず、歴史的に優勝経験豊富なフェネルバフチェのようなクラブが、それでもなお八百長に手を染めていたら?移籍を利用して相手チームの選手を試合に参加させないようにしたり、まわってきたボールを全て通すことで有名なゴールキーパーと試合に出場できるようにしたり、ライバルと対戦するチームに奨励金をばらまいたり、審判が調整したりしていたとしたら?

チャンピオンのタイトルを獲得したときにフェネルバフチェに向けられた周囲からの非難の中で、噂されている八百長の手口は、「フェネルバフチェは決して八百長をしない」として私が応援しているチームにはとうていふさわしいとは思えない見苦しいものだ。取調べが開始されたということは次のような理由から嬉しく思っている:フェネルバフチェやトルコのサッカー界に降りかかった屈辱は取り調べのおかげで晴らされるだろうから。

過ちを犯していたら?犯した者は罰を受けねばならない。

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( 翻訳者:金井佐和子 )
( 記事ID:23137 )