Cengiz Candar コラム:トルコの中東政策転換と、トルコの民主化へのシリアの貢献
2011年06月21日付 Hurriyet 紙

私がこのコラムを書いている時、バッシャール・アサド・シリア大統領の「国民へ」の演説が待たれていた。2か月を経て、その後最初の演説を行い、「国民による合法な要求」と「武器をもった集団」を区別して扱っていると述べると予測されていた。

バッシャール・アサド大統領は演説の前、イマド・ムスタファ駐米大使は、演説の内容と重要事項に関し相図を送っていた。アサド大統領は、シリアで数々の事件が始まってから2ヶ月後に最初の(今日に至るまでで唯一の)演説を行った。しかし、この演説は人々をひどく失望させるものだった。演説の後に事件が収束する様子はない。シリアで3月15日に事件が始まった時、2つの要求がなされた。その内容は、1963年以来続く、会合とデモ行為を禁止する、人々が司法の前には出されずに投獄されることを可能にする戒厳令を廃止と、30万人近くの、登録されていない、あらゆる権利を持たないシリアのクルド人に「市民カード」が与えられることの2つであった。

この他の要求はなされなかった。
アサド大統領はこれらの要求を聞き入れた。しかし、実行するまでに紆余曲折を経、時間を浪費したため、いざ実行するときには、事態が大きくなっており、要望が高まっていた。現在、たとえ口で鳥を捕まえたとしても(=奇跡を起こしたとしても)高まる要望の上を飛び越えることは非常に難しい。

エジプトのホスニー・ムバラク大統領が崩壊し、「アラブ革命」がピークを迎えた頃に、つまり1月にシリアで正当な選挙が行われたなら・・・、シリアを可能な限り近くから見ている者たちの意見は同じであった。バッシャール・アサド大統領が当選したことだろう。しかし、もはや違う。アサド大統領にとって、あらゆることが手遅れだ。

シリアの民衆の大多数は政権交代を望んでおり、3か月の間に流血の事件も起こってしまったため、バッシャール・アサド大統領の手はすでに汚れてしまったように見える。

バッシャール・アサド大統領は3か月前の変革宣言をしたが、国のあらゆる場所で広がるデモに対して政府は情け容赦ない形で弾圧を行った。変革を行うことと、自国民の血を無頓着にまき散らすことは、両方同時には存在しえない。後者は前者の有効性を取り消してしまう。

国民の意思に基づかない「警察国家」の空洞化も、事件によって明らかになった。このような体制で軍は、少数派の政権を守る手段となる。イスラエルに対し戦うことのなかったシリア軍は、自身の、武器を持たない国民に対しとても有効なのだ。

アサドはアラビア語の「ライオン」の意味にあたる。バッシャール・アサド大統領の父親ハーフズ・アサドの時代にも、アラブ人の間で「イスラエルに対してはうさぎ、自分の国に対してはライオン」というフレーズが定着していた。ハマーで、少なくとも1万人のシリア人を虐殺したことで知られるハーフェズ・アサドの兄弟であるリファト・アサドの指揮下にある軍は、一方、彼らの土地(ゴラン高原)を占領するイスラエルからは、その数の1%でさえも殺してはいない。

この間の30年近くの間に、ハーフェズの地位に彼の息子であるバッシャールが、(忘れないでおこう。この土地は共和国である) 、ハーフェズの兄弟リファトの地位にバッシャールの兄弟であるマヒルがついた。

マヒル・アサド氏は、タイイプ・エルドアントルコ首相の怒りすら買った。彼は、シリアで民衆に対して企てられている流血を伴う行動を先導している第4部隊の、そして共和国防衛隊の指導者である。

■トルコはシリアに何を望んでいるのだろう。

アラビーヤ・テレビもデイリー・テレグラフ(イギリス紙)も、トルコがダマスカスに「マヒル・アサドの更迭と、変革にすぐにとりかかること」を旨とした警告と要望の手紙を携えた使節を送ったことを主張した。さらに、職務を解かれたなら、マヒル・アサドがトルコに滞在するのを保証するという情報も流れた。

リビアから知り合いの記者が私に電話をかけてきて、この「情報」は正しいのかと尋ねてきたとき、「わかりませんが、ありえないことではありません」と答えた。なぜなら、タイイプ・エルドアン首相のマヒル・アサド氏に対する怒りと、そして、エルドアン首相がダマスカスに対し「暴力行為をやめよ、変革宣言をせよ」という要求をしたことを私は知っていたからだ。

トルコの政策決定者らがシリア体制の構造を多少の冷静さで持って評価するとき、この要求は実行に移され得ないということを、わかっていないとは思わない。そのため、もしこの主張が本当なら、これは、トルコが今後シリアに対してなす行動の合法的基盤の準備のためのものだと考えてみることは、意味があるだろう。

なぜなら、バッシャール・アサド大統領は「家族の、そしてシリアのリーダー」ではなく、シリアを圧搾して統制する「一族のスポークスマン」であるのだ。彼の父とは違う。シリア体制は、バッシャール・アサドの父方であるアサド家と、母方であるマクルフ家の厳格な運営下にある国である。「アサド-マクルフ両家を核とする政府」は、ある宗教的少数派に依拠しており、4つの治安当局と軍、バース党のような手段を使って国家を運営している。

変革とはつまり、政党がつくられることである。ある期間内で選挙を行うということである。「人道に対する罪」のカテゴリに入るここ2、3ヶ月のやり方、「不正」で喉までいっぱいになっているこの「家族」、そして徐々に「宗教的少数派のものとなった政府」が終わるという意味である。与党でとどまるため、与党を続けるためには、「武力」の他に頼る方法はない。

■トルコの中東政治における変化は、いつまで続くのか?

リビアでカダフィー大佐が退任するまでである。それまでは、続くであろうことは明らかだ。
チュニジアでベン・アリーの、エジプトではムバラクの、イエメンではアリ・サーレハの時代がおおよそ終わった後に、また、リビアではカダフィーが退任したら、事態がここまできたシリアでアサド政権が続くだろうと考えることは、歴史のダイナミックがどの方向にむかっているかを、全く理解しないということを意味する。

このため、トルコは「近隣諸国とのゼロ・プロブレム外交」をトレードマークにした中東政治から、ゆっくりと、シリアについては「近隣国の人々と共にあり、そこでの変革の側にたつ」政治に移行している。

最初の立場の建設者がアフメト・ダヴトオール外相であり、二つ目の立場の「スポークスマン」、「公の代弁者」、「リーダー」はタイイプ・エルドアン首相である。
タイイプ・エルドアン首相の(選挙勝利後の)「バルコニー演説」の冒頭における「カイロからサラエヴォへ、ダマスカスからエルサレムへ」話を持っていった、あの言葉を思い出してみてほしい。トルコがシリアやこの地域全体に関し、将来いかなる方向へ進もうと計画していることがわかるだろう。

そして、目と鼻の先にある国々で「自由」の側にたつこのトルコの政権が、自身の国で「自由」から逃れられると考えられるだろうか?
タイイプ・エルドアン首相のシリアに対する態度は、(忘れてはいけません、バッシャール・アサドと本当に仲がよく、彼をサポートし、彼と私的に友情を結んできた人物(=エルドアン)について話しているのです)、今後トルコにおける「新憲法」から「クルド問題解決」に至る諸問題に関し、「民主化の保証」のように思われる。すなわち、トルコがシリアの変革の手助けをしているのと同じ程度に、シリアは、逆方向から、トルコの民主化に貢献しているのだ。


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( 翻訳者:細谷和代 )
( 記事ID:23207 )