Hasan Pulurコラム:イスタンブルにある村
2011年07月11日付 Milliyet 紙

「イスタンブルにある村」といえば、すぐに頭に浮かぶいくつかの村があるだろう:「カドゥキョイ、イェニキョイ、イェシルキョイ」
少々少ないかもしれないが、イスタンブルにある村といってイスタンブルの人たちの脳裏にはこれらの村が描かれるだろう。
でもひょっとして、他の村もあるのだろうか?
いや、あるどころか(イスタンブル県には)151の村があり、まさしくこれぞ「村」と言うべき村なのだが、イスタンブルの人々ですら、知らない。

イスタンブル県特別行政体による研究で、知られているようで知られていない結果が明らかになった。
研究成果の序文を執筆したシェキプ・アヴダギチ氏はこう述べる:
「イスタンブルで暮らす人々の大部分を考えてみると、数多くの移民が集結していることがわかる。この辺りで暮らす何百万人もの移民の家族の多くはアナトリア、バルカン、コーカサスといった地域から来た人々で、一大イスタンブル図を形成しているのだ」

これらの村のいくつかは歴史的にみると、昔のギリシャ系住民による村であることがわかる。トルコ独立戦争の後、空虚となった村へギリシャから連れてこられた「住民交換のトルコ人」*が定住するようになった。
今日、イスタンブルにある151の村のうち、39はこの「住民交換の村」である。
一般的に農業と畜産業で生活の糧を得ていた村から、付近に作られた工業団地へ労働者が送りこまれている。

村の名前を列挙したリストから無作為にいくつかの村を選んだが、それぞれの名前は興味深い。
例えば、ゼルザヴァッチュ村...
村の基本情報は次のようなものである:
「1920年にギリシャ系住民によって創立。学校、診療所、モスクがそれぞれ1つずつある」
ゼルザヴァッチュ村は名前からも明らかなように、野菜や果物を生産している村である。長年、周辺地域やイスタンブルの中心部へ生産物を送っているそうだ。
サッカーは村の共通要素で、1976年に「ゼルザヴァッチュ連盟スポーツクラブ」が創設された。
村道は1972~1973年に村が自ら資金調達して作ったという。

「2011年の現在、イスタンブル県のなかで学校がない村はあるか?」と質問したとき、誰が「はい」と答えるだろうか!
しかし、あらゆるモノが豊かにあり、可能性やチャンスにあふれるイスタンブルの、「オルジュンリュ」村には学校がない。
なぜ?
なぜなら、学生数が学校を開くに満たないからで、村の人口も多くは高齢者である。
学齢期の児童は15年間、ケスターネリキ村の学校に通っていて、診療所もないため病人も同じくケスターネリキ村まで行かねばならない。人口398人の村は次のように説明している:
「オルジュンリュ村はチャタルジャ郡に属する村の中で最も閑静な村の1つだ。冬季は村の通りを歩いていても人に出会うことは滅多にない。村は水源と森林の地区であるために、開発禁止地区になっている。そのため、新しく結婚する者たちですら家を建てられず、別の場所へ引っ越していくのだ」
村には学校がなく、診療所もない。モスクのイマームにとっても宿舎のある村で、この有様では礼拝者の集団を見つけるのにもおそらく難航するのではないだろうか...

このような研究を目にするにつれ、あるいは読むにつれ、人が何を思うか知っていますか?
「魚は海にいて、海を知らない」
海にいる魚が海を知らないように、イスタンブルの人たちもイスタンブルを知らない。
(イスタンブルを全て知りつくした)イスタンブルの人は、いるのだろうか?


*ローザンヌ条約によるトルコのギリシャ正教徒住民とギリシャのムスリム住民の交換のこと。ギリシャ領の西トラキアのトルコ人とトルコ領のイスタンブルのギリシャ人は例外的に居住の継続が認められた。

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( 翻訳者:金井佐和子 )
( 記事ID:23227 )