Ismet Berkanコラム:軍はどれほど法や民主主義を尊重しているというのか
2011年07月31日付 Hurriyet 紙

どうしても否定され得ない事もある。

2000年代初頭、参謀本部は私たちの税金で様々なインターネットのドメイン名を買っている。

そしてこのドメイン名をもとに情報を発信する様々なインターネットサイトを開いている。このサイトでは嘘の情報や情報操作、挑発的な事柄が発信されている。こういったサイトではトルコ国民に嘘の情報が流されているだけではなく、同時に参謀本部は自らの政府に対して否定的な宣伝活動をしている。

最高裁判所共和国検事局長は、参謀本部が作ったサイトにある嘘の情報を証拠に採用して、公正発展党の解党裁判を行っている。情報が嘘である事は憲法裁判所の決定により確定的となっている。

* * *

そしてこれら全てが2009年に明らかになる。参謀本部はこれらを否定せず、「そうだ、我々が行ったが、我々は首相府の指示により行った」と言っている。

指示は探されたが、見つかっていない。分かったのは、参謀本部はビュレント・エジェビト元首相時代の通達に依っているという事だ。その通達に早速大幅な解釈を加え、自分たちの任務とし続けたようだ。そして嘘の情報を広めるサイトを作り、私たちに嘘をつき、自分の政府に反する行動を必死におこなったというのだ。

これら全ては指揮命令系統の中で、命令により生じたようだ。つい最近もこの件で裁判が開かれ、起訴状が書かれた。気になる方は開いて読んでみてください。

それは良いとして、私が理解できなかったのは、次の事だ。この真実が2009年に世間に知られた後、参謀本部は何をしたか。

例えば、トルコ国民に謝罪しただろうか。「本来私たちの任務ではない事に手を出しました、法を侵しました」と認め、ほんの少しでも組織として反省の意の表しただろうか。いや、逆に、責任をより下の大佐や少佐といった将校たちに押し付けるための文面を検察庁に書いたのだ。

しかしあの覚書やあの計画、その上おそらくサイト上の文面さえも、司令官の知ることなく、そして承認なしには広められなかっただろう。

* * *

現在この裁判で新たに逮捕が決定した将校たちのせいで、参謀総長と軍司令官たちは辞職している。「部下の権利を守れない状況になった」と言いながら。

全国民に嘘をつき、自分の政府に対して否定的宣伝活動を行った事に関していかなる行政上の取り調べも行わず、少しの反省の意も表さないのならば、人々が不思議に思うのも無理はないだろう。法や民主主義を言葉で言うほど尊重しているのか、と。

普通の民主主義国家ではネット上の覚え書きといった問題は検察や裁判所だけの問題にはなりえない。民主的な説明責任を信じる組織は出てきて説明し、必要ならば謝罪する。トルコでは罪が他者になすりつけようとされている。これはひどすぎるのではないか。

■「最後の砦が崩れた」との考え方

金曜の夕方、指揮官たちの辞職のニュースが知らされてから、少なくとも私の目を通せる範囲では明らかに悲しみがある。「なぜ全員一斉に辞職したのだろうか」という疑問にも勝る悲しみである。

私は正直この悲しみを不思議に思っている。なぜ人は全く知りもしない、日々の仕事として何をしているのかすらよく分からない人たちが職務を離れることに悲しみを覚えるのだろうか。おそらく少しステレオタイプに見えるだろうが、私はこの悲しみを、自らを世俗・アタテュルク主義と名乗る人たちがより強く持つものであると考えている。

* * *

私たちはいつも、民主主義の国における軍隊の役目がよく分からないでいた。軍隊を「民主主義の支え」とする人たちは私たちの中にかなり多い。近代的な自由民主主義は大きく3つの原理に基づく。権力の絶対化を阻止する均衡と抑制のメカニズム、法の優位、説明責任である。

トルコにおいては本当の権力の分立と法の優位性に基づくちゃんとした均衡と抑制のメカニズムは全くできていない。これがないことにより、権力の権威主義化、つまり説明責任を果たさなくても済む事がを容易となっている。

私が分かったのは、トルコでは多くの人にとって軍隊が、民主主義国を名乗る他のどの国にもないほどに、均衡と抑制のメカニズムとされているということだ。しかし、民主主義国においては、均衡と抑制のメカニズムは民主的で合法性を伴っていないといけない。軍に任されたこの機能は、民主性も合法性も伴っておらず、説明すら必要ない。

今、司令官たちが退職したことに悲しむ人たちは、この均衡と抑制のない民主主義(がなくなると)おびえる人たちである。この恐怖をよく理解し、その不安にこたえることがトルコの役目である。

しかし次の事も忘れてはならない。その役目、つまり権力の権威主義化と民主的説明責任果たさないでいることを防ぐという役目は、軍の役目にはなりえないのだ。軍を「体制の最後の砦」として見ることは、政体が民主主義を外れることをも支持するということである。

* * *

しかし政体が均衡と抑制のメカニズムを欠いていること、権力の絶対化もともに、民主主義にとって受け入れられるものではないのである。

司令官たちの辞職は、確かに望まれてなくとも市民民主主義への貢献という性質を持っている。しかしこれはあくまで貢献でしかない。市民民主主義を私たちが生み出さなければならないのだ。誰かが持ってきてプレゼントしてくれるのを待ってはいられない。

ある政体の民主主義度合いの目安も、権力が制御され得ることや説明責任に比例しているのだ。

故に、「最後の砦」は崩れていない。まずこのような砦など元々なかったのだ。


(本記事はAsahi中東マガジンでも紹介されています。)

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:南澤沙織 )
( 記事ID:23500 )