Yaşar Süngüコラム:ソマリアの飢餓と飽満な私たち
2011年08月17日付 Yeni Safak 紙

ヨーロッパの人々がこの大陸を搾取する代わりにパートナーとして取引きすることを選んでいたら、今日アフリカ諸国はどうなっていただろうか。
アフリカにおける餓死の大部分がムスリムであることに注意してほしい。ムスリムをテロリストであるかのように見せようとするヨーロッパ各国政府が、食糧を与えつつキリスト教徒化させたアフリカの貧困者たちには支援をする一方で、同じアフリカ大陸で餓死の危機に瀕する人々とは一体誰なのか。
それは、ムスリムであり続けたいというアフリカの人々である。
つまり、私たちは餓死する子どもたちの両親と同じアッラーを、同じ預言者を、そして同じ宗教を信じているのだ。

「隣人が飢えているのにお腹を満たして横たわるような者は我々の同胞ではない」という預言者を信じるアフリカの人は、果たして私たちをどう思っているのだろうか。
私たち人間が、これほどまでに貪欲で欲深くなかったとしたら、アフリカの人々はこうした飢餓に瀕することはなかったのではないか。

イフタール(断食月中の日没後の断食後にとる食事)に出される食糧がないと知りながら断食するのはどのような気持ちだろうか。
夕食に何を食べるか知っていながら空腹でいるのと、夕食に何も食べる物がないと分かっていることがどれほどの大きな差であるか、私たちはわかっているだろうか。
飢えることとはどのようなことなのか。
ラマザンのときに断食しながら空腹に耐えるのと、アフリカで全く食糧がないために飢えることは同じことだろうか。
イフタールやサフル(断食月中の夜明け前にとる食事)で十分満足するまで飲食することと、口にするものが何もないまま断食を続けることの間にどのような違いがあるのか。

私たちはアフリカの人々を「支援が必要な人たち」という目でみているのか?それとも「私たちはこの人たちに(彼らを支援する)責務がある」という理屈でみているのか?
私たちは債主で、彼らは債務者なのか?
答えを見出さねばならない問いは山積みだ。
この悲痛な問いを私たちは心を十分に痛めながら自問しよう。
この問いの答えも、もし私たちが答えを見出せるならば、生きながらえることのできた人々を見つけて私たちの責務を果たすことができるのだ。
そうでなければ、私たちのすべきことは非常に困難だ・・・

ボランティアグループのコーディネータであるイブラヒム・ジェイラン氏がいつも口にする非常に注目すべき言葉がある;「我々は彼らに何かしらを持っていくが、毎回彼らからそれ以上のものをもらって帰ってくるのだ」。
「彼らに健康上の支援をし、また、生活を支えるためのヤギを供与している。それに健康的な飲料水のために近日中に井戸を完成させる。アフリカからトルコへ、我々は思想や人生観を完全に変化させて帰ってくるのだ」と話す。

アフリカの人々は自分たちがどのくらい貧困であるか気づいていない。
彼らは、私たちトルコ人が彼らより若干ましな程度であると思っているのだ。

ところが実は、私たちトルコ人が年に1ヶ月、それもラマザン月に「空腹だ」といって不満を漏らすとき、彼らは年間を通じて常に飢えている。
私たちが今年、ラマザンが夏の時期にあたるからといって「暑くて大変だ」と言っているとき、一方で彼らは何年もの間、焼け付くような暑さの中で生きているのだ。

アフリカにおける人々の悲劇に対して、声をあげずにいることは不可能だ。
そこで生きる人々、我々が目にした風景は人間の内を痛め、良心を持つ全ての人々に「私は何ができるのか」と言わしめる。

援助や支援といったことに関してトルコは、多くのイスラーム諸国に比べるとかなり進んでいる。
とりわけトルコ協同開発局(TİKA)はこの分野においては信じ難いレベルで優れた働きをしている。
砂漠の下から湧き出す無料の恩恵を、それぞれ自分たちの個人的な権力や快楽のために利用する中東諸国は、この分野の試験には落第したといえる。
もしパスしていたなら、アフリカ諸国における、とりわけムスリム社会は現状のような惨状にはならなかっただろう。

どうして私たちはこのように考えようとしないのだろうか。
私たちだって、アフリカ人の両親から生まれた子どもとしてこの世に誕生するかもしれなかった。
同じ不幸、同じ貧困、同じ飢餓を経験するかもしれなかったのだ。
私たちの現在の状況に、彼らがいることだってありえたのだ。
つまり、今日のアフリカにおいて餓死寸前の子どもたちがイスタンブルに、あるいはイスタンブルの子どもたちもソマリアの難民キャンプにいることだってありえたのだ。
アフリカの子どもたちがそこで生まれたことが不運なのではない。

宿命を記すペンの持ち主(=神)がこのような非道を働くか?
決して働くまい。
非道であるのは私たちだ。
現在ある状況が永遠で、(こうした悪くない状況にあることを)権利として当然だと思っている私たちが非道なのだ。

このことにおいて、誰しもが責任を逃れてはならない。
できうる限りの全ての可能性にかけることは、自分を人間だという全ての人の責務である。

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( 翻訳者:金井佐和子 )
( 記事ID:23680 )