エジプト:ムスリマ姉妹団の創設・活動についての歴史的証言
2011年09月11日付 al-Hayat 紙


■歴史の証人 エジプト・ムスリマ「姉妹団」の母ファーティマ・アブドゥルハーディー

2011年09月11日『アル=ハヤート』

【ハーシム・タマーム】

 ファーティマ・アブドゥルハーディー氏はムスリマ姉妹団(ムスリム同胞団の女性団体)の創始者の一人であり、著名な指導者である。この女性たちの活動は、アル=イスマーイーリーヤでムスリム同胞団が結成されて数年後に、1932年にカイロに移るまで慎ましやかに始まった。姉妹団の活動の一部は、ルビーバ・アハマド氏によって知られることとなった。彼は、1944年4月にムスリム姉妹団の最初の執行委員会の発足を目撃していた。姉妹団執行委員会の発足は、ムスリム同胞団創始者であるハサン・アル=バンナー師の指示と、マフムード・ジャウハリー氏の監督によってなされた。この委員会には、ファーティマ・アル=イシュマーウィーを委員長として12名の女性が委員だった。このときの副委員長がファーティマ・アブドゥルハーディーであった。

 彼女自身は有名ではなかったが、ファーティマ・アブドゥルハーディーはかなりの重要人物(ムハンマド・ユースフ・ヒワーシュ)の妻であった。ヒワーシュは、おそらくサイイド・クトゥブにちなむ有名な1965年組織の重要人物だった。ヒワーシュは長年刑務所でクトゥブと同僚で、次いで処刑されたという経歴に加え、同人のことをクトゥブの目と考えることができる。クトゥブはヒワーシュという目を通じてムスリム同胞団を見、その手を通じて同胞団を率いた。ヒワーシュは外部から同胞団の舞台裏とその運営に加わった人物だった。ジャマール・アブドゥンナーセル(ナセル)政権時代の1950年代、60年代の同胞団について知ることは、困難である。

 ファーティマ・アブドゥルハーディーは、「時代」という言葉の意味する全てを目撃した証人である。彼女はそうした世界でムスリマ姉妹団建設の最初のレンガを積むのに参加した人物である。ムスリマ姉妹団の創設期の状況は、ムスリム同胞団をはじめとするイスラーム運動全般の歴史の中で、創設以来4分の3世紀を経ても詳細不明な状況である。ムスリマ姉妹団創設期の状況については、ザイナブ・ガザーリー女史を通じて熱い表面的な部分、否、爆発的な部分のわずかしか表に出ていなかった。ガザーリー女史はイスラーム女性活動の象徴として世間に知れ渡り、人々を彼女の有名な伝記「私の人生の日々」で夢中にさせた。イスラーム女性運動の真の歴史、文書化されていない歴史について、我々はファーティマ・アブドゥルハーディーの証言こそが、歴史記述の第一歩として適切であると言うことができる。このことは、イスラーム女性運動の社会的側面については特に当てはまる。

 ファーティマ・アブドゥルハーディーは、ムスリム同胞団指導者や同胞団の歴史的著名人たちの家庭に最も近い人物だった。彼女は、同胞団の創設者のハサン・アル=バンナー師を身近に見知っており、、彼の家族や妻、娘たちとも交際があった。のみならず、彼女は家族以外で唯一、アル=バンナー師が暗殺されたときに一緒におり、アル=バンナー師の遺体を清め、葬列を家から送り出した場面に居合わせた人物でもある。アブドゥルハーディーは、同胞団の第2代監督官であるハサン・アル=フダイビーの家族の女性と緊密な関係にあった。また、同胞団ではアル=バンナー師に次ぐ著名人であるサイイド・クトゥブの家族の女性たちとも親密だった。彼女は、同胞団の男たちが逮捕された苦境、同胞団員の家族が稼ぎ手を失った危機をアル=フダイビーやクトゥブの家族の女性たちと生きた。また、同胞団の女性50人ほどが投獄されたときも、彼女たちとともに生きた。ファーティマ・アブドゥルハーディーは、イスラーム運動の中で女性に与えられた最も重要な物事の目撃者であり、実践者なのである。
(後略)

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( 翻訳者:梶原夏海 )
( 記事ID:23914 )