Joost Lagendijk コラム:エジプトのモデルとなるのはどちらのトルコ・モデル?
2011年09月14日付 Zaman 紙

このコラムを書いている今、タイイプ・エルドアン首相はカイロ空港に降り立とうとしている。カイロは、トルコのリーダーによるエジプト、チュニジア、リビア訪問というかなり宣伝的な「アラブの春ツアー」の最初の目的地だ。エルドアン首相の、とりわけ革命後のエジプトへの訪問は、世界中のメディアから注目されている。
メディアは、トルコのエルサレムとの外交関係の破綻や、エジプトのイスラエル大使館が先週、怒りの群衆によって襲撃され大使がエジプトからの脱出を余儀なくされたことなどを受け、トルコ、エジプト両国が新たな対イスラエル連合の動きを見せるかどうかを待ち構えているのだ。
しかしながら、昨年のガザへの支援船団の活動家9名の殺害に関し断固謝罪を拒否する「わがままな」イスラエルに対し、再び言葉で攻めるためだけにエルドアン首相はエジプトを訪れたのではない。周辺地域の中で最も強力な軍の力に対して立ち向かう勇気を持った1人のリーダー、もしくはエジプト人や他のアラブの人々の大部分が自分たちの国が倣うべきモデルとして見ている国の首相という形容詞をもって、アラブ世界にどれほど人気があるのかを示したいという狙いもあるのだ。

今年の1月に「アラブの春」が興隆して以降、1つのモデルとしてのトルコに関して様々なことが言われている。単純化に対して警鐘を鳴らすアナリストや、あるいは独裁者から新しく解放されたばかりのアラブ諸国とトルコの間にある大きな差異を強調するアナリストに私は同調している。今日のトルコを、例えるならば80年間にわたる世俗主義の政治組織の歴史を持たない国々で模倣できないことは間違いない。この歴史という点にしても、大きな隔たりのたった一つに過ぎない。それでもなお、国の改革を願う多くのアラブ社会が、トルコや公正発展党を多くのことを学べる魅惑的な例としてみていることも事実である。

私が関心があるのは、エジプトでの会合でエルドアン首相がどのようなトルコ・モデルを勧めたのか、という点だ。カイロの当局関係者は、エルドアン首相が各国メディアのカメラの前でパフォーマンスするのを嫌い、そのため、エルドアン首相がタハリール広場に行くことや、大学で世論と話しをすることも許可されなかった。その結果、エルドアン首相の発言は正式に表に出ることはなかった。
しかしながら、2月にムバラク大統領を倒そうという運動を牽引した若者たちや、現在エジプトを統治する軍最高評議会のタンタウィ議長と会談する際に、1つの話題だけに終始することはそれほど簡単なはずはない。

抗議運動を続ける若者たちにとって現在のトルコは、世俗的な政府をポスト・イスラム主義の保守政党が統治するムスリム国家であり、様々な不自由はあるにしてもトルコ国民は他のアラブ諸国に比べてより多くの個人の自由を享受できる、成功した経済と民主主義を持つ魅力的な例なのである。新しいトルコに関するこうした認識が、公正発展党党首をも満足させたことは間違いない。

しかし、依然として昔のトルコ・モデルも存在しており、タンタウィ議長や軍高官たちの頭にあるのはこの古いモデルである。ムバラク氏から権力を奪ったいま、選挙後に、現在保持している権限を手放す意思があるようにはほとんど見えない。この例の一つが新しいエジプト憲法だ。先頭に立つ軍高官たちは、この憲法が軍にとって将来的に必要となるとみるや、(軍の)国家運営への介入を可能にするいくつかの条項を含めるようにとのサインをずいぶん前から示していた。数十年に渡る軍の後見の後、政治における軍の役割をまだ最近ようやく後退させることに成功し始めたばかりのトルコの人々にとって、このような話しは耳慣れているのではないだろうか?

エルドアン首相は(確実に非公式のかたちで)エジプトの軍高官らに政治的野心を諦め、任務は新たな行政当局へ委任するのを認めるよう忠告をしたのだろうか?それとも、軍の絶え間ない支配にほとほと愛想を尽かした抗議者たちには別のこと、イスラエルを追い詰めるために少なくとも短期間の協同を余儀なくされた軍の有力者にも何か別のことを話したのだろうか?

というわけでこれは、新しい民主主義の側にたつものでありたいとは思いつつも、いまだ権力をもっている昔の後見人(=軍)とも一緒に働かなくてはならない今のトルコ政府の直面しているジレンマの一例なのである。

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( 翻訳者:金井佐和子 )
( 記事ID:23965 )