Nuray Mertコラム:タラフ紙とその他
2011年10月09日付 Milliyet 紙

クルド問題解決と社会的平和への私たちの希望がこれほど暗くなった昨今、希望を抱かせ、強調し、増す状況が現れている。今日のコラムでは、この方向でのひとつの展開として、クルド問題の見方において、冷静で民主的な発信とみることができるいくつかの記事を取り上げたいと思っていた。そう考えていたとき、タラフ紙で(PKKの)ムラト・カラユラン氏がアフメト・アルタン氏に宛てた手紙の公開は、多くの希望を抱かせた。

ジェンギズ・ジャンダル氏がトルコ経済社会研究財団のために書いた報告書や、その前後に書いた彼の一連の記事は、問題を理解し無意味な議論から抜け出すために非常に重要だった。また、ハサン・ジェマル氏の『和平に身を委ねよ』という本と、この本に関してタラフ紙で行った長いルポ(10月3日)は、同様に重要だった。ここで、政権の根絶政策とこの方向で音頭を取るメディアの態度に対し、ユルドゥルム・チュルケル氏が自身の新聞の見出し記事で声高に反対したこと(10月2日)は、重要な発信として、同紙の他の執筆者ら(コライ・チャルシュカン氏、アフメト・インセル氏、オズギュル・ムムジュ氏)によって支持された。ロニ・マルグリエス氏の「武力の戦争と見出し記事の戦争」とい う題名の記事(タラフ紙、10月5日)は、同じ問題で最も強い声を発したもののひとつだった。

■ 報じられたことは重要な進歩

セダト・エルギン氏は最近の3つの記事(ヒュリイェト紙10月6,7,8日)で、最近のクルド社会連合(KCK)捜査に関連してKCK裁判について書き、この問題で返答すべき問題を強調した。同紙のアフメト・ハカン氏は、「打て、打ち負かせ、捕まえろ、と言うのはとても簡単だ」という見出し記事によって(10月8日)、KCK 捜査の一方で、「打とう、打ち負かそう」というメディアの発信が私たちをどこに引き込みうるかを問いかけた。私の目に最初に飛び込んできたものの例はこれらで、これら以外の多くの作家、風刺画家が現行の政策に対して民主的政治を望む声を上げ始めた。これは希望を与えるような展開だと考えている。

タラフ紙が昨日報じた「カラユラン氏の手紙」も、非常に重要な進歩であると考えている。なぜなら、クルド問題の平和的解決の前にある最も大きな障害は、問題をあらゆる立場と側面から自由に議論することの前に立ちはだかる法的そして心理的的な障害であるからでる。この問題や他の問題でも絶対に異なった考えや評価があ るはずで、大切なのはこの異なった考えが自由に議論される環境が作られることだ。

このため、まず民法と刑法が制限する範囲を変える必要がある。また、この議論を公正に行うために、心理的な障害を越える必要がある。ある立場の人たちを 「テロリスト」と決め付け、彼らが言うことに耳をふさぎ、世論が知ることを妨害することは、議論をはじめから不可能な状態にしてしまう。

■ 禁止の背後にある論理とは?

このため、タラフ紙がカラユラン氏の手紙を完全に原文のままで公表したことは非常に重要な進歩である。この報道を受け、すぐさま新聞に「クルド風」 という見出しの記事を書く勇気を見せたアフメト・アルタン編集長に感謝しなければならない。ある権利の移譲と、民主化へ向け共同して努力するという点から、だれもがすべての問題で同じように考える必要はない。

このような勇気ある発信以外に、現在、正当な議論をできるような、「他の立場の人たち」の発信内容を知ることができない。 ジェンギズ・カプマズ氏の、「オジャランのイムラル島での日々」という題名の本は、この問題において重要な取り組みであるにもかかわらず、多くの他の出版物のように禁止され、市場から除かれた。このような禁止の背後にある論理とは何なのだろうか?この本を読んだ全員が「オジャラン信者」になると信じているなら、オジャランの見解と政治的方向性は、読者を影響下におく力を持っていると考えていることになる。「誰もこれを批判する論理を生み出せない」と考 えているに違いない。だが、世論があらゆる見解と立場について自由に知ることができるなら、健全な議論をする可能性が生まれる。民主的な国で取られる方法は、このようでなければならない。

■ 「禁断の庭」、乗り越えなければならない

本紙の読者の一部は、トルコ世論の大部分と同じように、「禁断の庭」から距離を置くことに慣れ、異なったことを聞くと、コラミストを批判するのではなく、直接的な罵倒と侮辱で責めたてることをいとわない。私はこの状態に個人的に影響されていないということはできないが、非難はできない。「風呂に入った人は汗をかく(一旦ことを始めたら困難を被り耐えることも折り込みずみ)」と言った具合に、正しいと分かっていることは口にする。しかし先の行為に及ぶ人たちへ望みたいのは、民主的な社会を望んでいるなら、「禁断の庭」を乗り越える必要があると考えることだ。今のところは、言えるのはこれだけだ。

追伸:私は、首相のような立場にいる人に個人的なお悔やみを言うことは控えるような立場をとっています。しかし、母の遺体のそばで孤児のように泣くエルドアン氏を見ると、彼が首相であることを忘れました。心からお悔やみ申し上げます。

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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:24207 )