ビザンツの「万里の長城」、22キロの壁、現存
2011年10月17日付 Milliyet 紙


「アナスタシウス」の防壁は、ビザンツ帝国時代にトラキア地方からの民族侵入に対しイスタンブルを守るためチャタルジャ‐スィリヴリ間に建設され、「大きな壁」の名で知られている。45キロメートルにわたる壁のうち、22キロメートルが現存している。

イスタンブル第6文化・自然保護協会の会長であり、美術史の研究家であるハイリ・フェフミ・ユルマズ氏によると、イスタンブルが大都市になったのは4世紀以降であり、ローマ帝国の首都になった当時、イスタンブルは特にバルカンからの攻撃を受けるようになっていた。
ユルマズ氏は、このため町の防衛を目的に多くの防壁が建設されたことを指摘し、「5世紀に市壁の建設の一環としてトラキアに大きな防壁が建設されました」と述べた。
ユルマズ氏は、この防壁は黒海に面したチャタルジャのカラジャキョイからスィリヴリの西まで続いていると話し、次のように語った。
「トラキア半島までの距離は直線で約45キロメートルです。非常に長い防壁です。トルコで最長の防衛システムです。
定住民が遊牧民の行動に対する自衛のために構想した建築物のうち、最も興味深い例です。世界の防衛システムのなかでも極めて重要な位置を占めています。この防壁は5世紀の終わりから6世紀の初頭にかけて建設されましたが、完成させたのはアナスタシウス一世です。この有名な皇帝は、507~512年に防壁を完成させました。そのため、この防壁には彼の名が付けられているのです。しかしビザンツの史料は『大きな壁』という呼び方をより好んでいます。ほとんどが『大きな壁』とよんでいます」

ユルマズ氏は、防壁は非常に長い年月をかけて建設されたと語り、次のように述べた。
「防壁の建設にはさまざまな材料が用いられています。首都を守るため、非常に重要視されていたことが分かります。建設後、何度も修復されたようです。地震や敵からの攻撃で損傷を受けたため、何度も修理されたのです。これに関する碑文も存在します。11世紀の碑文が残っています。防壁が最後に修復されたのは11世紀です。その後はおそらく放置されたのでしょう。防壁は切石で作られたようです。一種の石灰岩です。所々にレンガで調整されている箇所もありますが、主に切石で作られています。これらはいずれもホラサン・モルタルと呼ばれる漆喰で接合されています。レンガの粉末、レンガの欠片、川の砂、石灰から作られる天然の漆喰です。防壁がびっしりと植物に覆われているのはそのためです。石灰の混じった土を好む植物はそこで生育することができるのです」

■「防壁の石は、建築材として使われた」

ユルマズ氏は、防壁のうち特に北側が今日まで良い状態で残ったとし、次のように語った。「約20キロメートルにおよぶ防壁の一部を森の中で見ることができます。いくつかの場所では高さ3~4メートルの壁をはっきりと見ることができます。壁の厚さは平均して約3メートルですが、2,5メートルのところや3,5メートルのところもあります。森の中にあるため、これ以上壁をたどることはできません。森の中でも壁に沿って道が続いているところでは見ることができます。防壁が放置されるようになってから、住民たちは壁の石を建築材として使っていました。スィリヴリに近いところにある壁は、まわりの建築物のために使われたようです。北へ伸びている部分は、森に囲まれていたため、また居住地から遠く離れていたために、他の部分よりも良い状態で残ったのです。中世にはこうしたことが世界のあらゆる場所で起きていました。古い建築物から材料を調達し、新しい建築物に使ったのです。だから壁は防壁としての機能を失ってしまったのです。」

■「建設の目的は万里の長城と同じ」

ユルマズ氏によると、防壁は町を守るのにあまり役に立たず、バルカンから来た人々はいつでもイスタンブルに入ることができた。同氏は、ビザンツ帝国はこの壁のおかげで一度ブルガール人からの攻撃を抑止することができたとしつつも次のように述べた。
「それ以外では、アヴァール人も、フン人も、ブルガール人も、いつでもイスタンブルに入ることができました。建設の目的は万里の長城と同じです。定住民の世界を遊牧民から守るために作られたのです。万里の長城は非常に大きく、並はずれています。中国の北部全域を含んでいますが、その万里の長城も部分的には多くの壁から成っています。
ローマ時代にも2世紀以降こうした防壁が建設されました。イギリスのハドリアヌスの城壁はとても有名です。ルーマニアにもこうした防壁があります。アナスタシウスの防壁は、最も良い状態で現存している防壁の一つです。」

■「観光資源として評価されていない」

ユルマズ氏は、イスタンブル広域市は防壁の保護に向けた計画に着手しているとしながらも次のように説明した。
「今のところ実行に移されている計画はありません。多くの策定と、保護に向けた計画の作成が行なわれたところです。まず道筋が定められました。この活動はとても重要です。継続されることを願います。残念ながら観光資源としては評価されていません。見ることのできる部分がとても少ないからです。少し努力して森に残された部分を美化すること、壁を美化すること、実際に壁を訪れることができる場所を何箇所か作ることは、特に北側の防壁に対して非常に有益でしょう。観光の観点からは、日帰りのツアーを計画することができます。森に囲まれている部分が多く、全体としての防壁の保護はやや難しいです。近くに町がないため、残念ながら防壁の置かれている状況は明るいとは言えません。しかし文化遺産として登録されました。文化遺産と認められたのです」

■「トレジャーハンターが破壊している」

ユルマズ氏は、防壁の数か所に宝物(を探すため)の穴が見つかっており、穴の数は日々増えていると語り、次のように述べた。
「観光資源として利用するならば、地域の住民たちにとっても、近隣の大都市イスタンブルにとっても、重要な観光地になりえます。このような可能性があるのに、防壁はトレジャーハンターによって破壊されています。悲しいことです。ここを訪れたいと思っている旅行者はいても、ルートも標識となる看板もないため来ることができずにいます。修復よりも、森の中の整備が必要です。世界各地にある防壁は、大変注目され、たくさんの人が訪れています。間違いなくここにも来てくれるでしょう。防壁は、まずイスタンブルの住民から、次に外国人から注目されるでしょう。なぜならこの壁はイスタンブルの歴史とも世界史とも密接に繋がっているのです」
ユルマズ氏によると、防壁の起点には教会の遺跡があり、壁に沿って小さな礼拝所や兵士の避難所が建てられている。こうした建築物の遺構も見ることができるが、残念ながら教会は破壊され崩れてしまっているという。

ユルマズ氏は、この防壁に関する最初の調査は、バルカン戦争中にオスマン帝国がこの地域まで後退したことに始まると語った。同氏によると、最初の本格的な調査を行なったのは、アヤソフィア博物館の館長を務めたフェリドゥン・ディリムテキン氏であり、彼は防壁を撮った最初の写真集を出版した。それ以後国外の多くの研究者が調査を行なった。
ユルマズ氏は、『大きな壁』に関する調査書を作成しチャタルジャ区役所に提出したと言い添えた。

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( 翻訳者:篁日向子 )
( 記事ID:24266 )