Mehmet Y. Yılmazコラム:調整力がない政府
2011年10月27日付 Hurriyet 紙

昨日のテレビ放送で、ヴァンでテントを求める人々の様子が映し出されているのを見て、日本で起きた津波の後、たった一つのりんごをもらうために何時間も整然と列をなして待っている光景を思い出した。

このことを、社会における文化の違いと結びつけるのは一番簡単だ。しかし、問題は文化の違いなどよりもトルコ(政府)の調整能力に関するものであるはずだ。
地震で家を失い、倒壊を免れた家にも入れないほどの恐怖を感じ、寒さと降雨の中で時間を過ごした人々の集団に、トラックが乗り込みテントを運びこみ配ろうとするならば、世界中のどこでも同じ光景を目にすることになる。力づくで行動し、無秩序な状態になる。人々はこの無秩序な混乱状況の下では全く必要のないものですら持ち去っていく。ある者はお腹を満たす一切れのパンですら見つけられないのに、別のある者は3日間食べてもなくならないほどのパンを持ってテントへと向かう。
何年ものあいだ、自然災害が生じるたびに同じ情景を目にするが、支援の配分を規律あるかたちでもたらすことのできる調整計画を発展させ実行するということが我々はできていないのだ。
計算上では、すべての公的部局において災害救助の専門家がいるのだが、この種の(非常事態の)状況下での対処法を示すようなプランを持ち合わせていないことは明らかである。たとえあるとしても、埃だらけの棚に放置され、誰も災害に対して前もって準備しようとは考えない。
こうしたプランがあったなら、赤新月社の15のトラックは強奪されなかったのではなかろうか?
強奪されたトラックにはテントや暖房器具、食糧といった緊急救援物資があった。支援物資を運ぶ車両隊がてんでバラバラに避難場所へ入り、トラック上から物資をばら撒くことが、こうした結果を呼ぶ原因となっている。
多くの惜しみない献身的な支援が送られているのに、基本的な調整がなっていないため、人々は悲惨な状況下に取り残されている。

■これは政府の責任だ

エルドアン首相は地震の後、ヴァンならびにエルジシュで行われている支援に関して行われた情報提供の際、被災地へ十分なテントが送られていること、しかし発生後24時間以内には支援物資の配布が十分行われなかったと述べた。
こうした状況下ではメディアに罪を着せずにはいられないもので、今回もそうであった。支援が遅遅として進まないことに不満を漏らす市民を画面に映したと批判したのだ。まるでこの映像を映しさえしなければ支援が整然と配布されるかのごとく!
地震後に外国からの支援の申し出を断わりながらも、その後3日間たってから「テント、プレハブ住宅、避難用コンテナが必要となった」といって支援の呼びかけが行われたことは、政府機関が互いにいかに情報共有がなされていないかということを表している。
地震後に被災地でどのくらいの物資の需要があるか、備蓄の状況、そしてこれらの備蓄が被災地にどのくらいで届くかといったことに関する計算が行われていなかったことは、明らかな調整力不足である。
政府機関が相互に協調して対応することに関しては誰がその責任者なのだろうか?憲法やその他法律では責任者は首相であるとしている。
首相はメディアを非難する代わりに、組織(調整)体制の不備の原因を究明する立場にある。
トルコは、インドネシアからパキスタンに、ソマリアからリビアに及ぶあらゆる国へ支援を送り、これを誇りに思う一方で、自国においてはごく基本的な必要性にすら対応できないという、そのような国ではない。
この現状の唯一の要因は、政府機関における調整の失敗と、現在の緊急時計画が適用できない、ということにある。
そして民主主義において、うまく運ばない事柄について責任をとらねばならないポジションは国家政府以外の何ものでもないのだ。

(以下、略)

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( 翻訳者:金井佐和子 )
( 記事ID:24365 )