Oral Calislar コラム:民族差別主義は、「思想」といえるか?
2011年10月26日付 Radikal 紙

ヴァン‐エルジシュ地震は人々の良心をゆり動かす効果をもたらした…。様々な意見を持つ私たちが、傷をふさぐために強く結ばれている。しかしその一方で、どの社会においてもそうであるように、我々の社会においても、頭に浮かぶなんでもを民族差別の材料にしようとする者たちが存在することは驚くに値しない。民族差別主義とは、見出し得る(実際の根拠に依拠する、あるいは依拠しない)あらゆる種類の材料を、差別を煽るために使って成りたっているような思考形態である…。(今次の地震に関し)「ほら、あなた方は警察や兵士に銃を向けていたのに、今度は、彼らの助けが必要になった」という発言(注)が飛び出したが、これを我々はこの枠組みで理解することができる。
[訳者注:ATVの女性キャスターが行った発言]

ペリン・チフテが司会するハベル・テュルクTVの「新聞メディア」という番組で地震について話したとき、私は地震を口実に差別を行う人々についてもコメントした。この種の反応は、排外主義や民族差別主義というより、そもそも、精神分析学的な観点で調べなくてはいけない問題だと述べた。確かに、ある都市の人々が自然災害の悲嘆の最中にある時に、「あなたは、警察に石を投げていたんでしょう」と言ってしまえる精神構造を調べれば、差別主義に関して多くの新発見を引き出されるだろう。しかし、放送中にオンラインで届いたあるメッセージには約言すると次のようなことが書かれていた。「だが、民族主義も民族差別主義もそれぞれ、一つの思想ではないか。彼らが自分の思想を発言する権利はないのか?何をバカなことをいっているんだ」

その結果、「PKKはクルド人の組織である、ヴァンとエルジシュの住人もクルド人である」という類推によって、「ごらんなさい、昨日あなた方が攻撃をした軍や警察が、今あなた方を援助しているのです」とコメントする人たちがあらわれる。当然、このような言説の中からは、「テロリストたちに対するアッラーの怒り」、「神からの警告」という意見もでてくる。人間をアイデンティティゆえに敵とみなすこと、彼らを辛い目に遭わせることに喜びを感じる行為を披歴することは、民族差別であり人類に対する罪であるにもかからわず…。

しかし、ともかくも、現時点ではこうした見方はほんの一部に過ぎず、問題を人道的な態度で考える人々の声がより強くなっている。

■悲哀を力に、そして解決に変える

地震の報を最初に聞いた瞬間からずっと、多くの人と同様に私も、我々が経験した哀しみを力に変えることができる、変えなくてはならないと思っている。1999年のイズミト湾地震の際、ギリシャが我々を支援するために尽力してくれたことで両国間の氷が解けたではないか。

エルジシュ地震がクルド問題の解決に弾みをもたらす可能性は確かにある。トルコの東部が西部を、西部が東部を理解するために、今後これまでとは違った土台が築かれるかもしれない。無論、こうした期待は社会の様々な変化のプロセスに向けられるが、過度な期待にいだくことは、時に失望につながる可能性があるということもまた現実である。

タラフ紙は一昨日、トルコ軍が越境作戦を開始したことを「地震にもかかわらず戦闘」というタイトルで、批判的視点をヘッドラインに掲載した。当然ながら非常に激しい反発に直面した。しかし、この時点で越境攻撃を行い、そこでの死者がトルコに運ばれ葬儀がおこなわれれば、そのことがその地震の哀しみのただ中で引き起こすであろう心理的な影響を十分に検討することは有益である。国家もPKKも、見方によっては、話し合いでの問題の解決へ向け歩み寄りの姿勢も示している。首相は「会談を行う可能性はある」という表現を使った。それならば、なぜ、このような暴力や怒りの応酬になるのか!

エルドアン首相が被災地へ急行したことは、人道的にも政治的な意味においても重要な配慮と直観の現れだった。デミルタシュ平和民主党共同党首の「支援には兄弟愛の香りがする」という表現や、イドリス・ナイム・シャーヒン内相に関する国会での糾弾審議の延期も前向きな徴として評価し得る。

我々の関心と配慮を、解決と平和に集中させることは可能なのだ。哀しみを力に変えることは、おそらくそう容易ではないが、しかし不可能でもない。

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:24394 )