O. K. Cengizコラム:トルコで物を書くには勇気がいる
2011年10月31日付 Radikal 紙

トルコでは政権批判がもはや困難になってきているが、PKKも自身への批判を慎むよう指令を出している。

大好きな本がある。ラルフ・キース著の『書く勇気』だが、文筆業にほぼ必ずついて回る「不安」について語っている。トルコの話題に入る前に、まずはお見せしたい文をいくつか一緒に読んでみよう。

「物書きには勇気が必要である。言葉を紙上に並べると、明白に不安と対峙することになる…。書いたものを公開する人はみな、心理学者の言う「パフォーマンス不安」に陥るのである。」(8 p)

「書くことがもたらす不安を否定したり、封じ込めたり、除去することは不可能で、望み得ない。ものを書く過程で不安を避けることはできないし、同時に不可分の要素である。もし、不安を感じないならば、そもそも何も書いていないということだ。」(13 p)

「自分を過度に守ろうとするもの書きは、二流である。表現が防御盾の後ろに隠れ、ぎこちないものとなる」(41 p)

「他人の反応に対する不安は、もの書きを麻痺させる。」(45 p)

「長年文筆業に携わっている者として、普遍的に最も感じる恐怖とは愚かな状況に落ちる恐怖であることに気付いた。」(183 p)

私は彼を高く評価している。真実を書くことを望む誰もが普遍的に経験する感情について述べているのだ。しかし、これがトルコとなると文筆業に潜む不安は、著者が語るよりもずっと大きいものとなる…。

なにより、まず、ここは多数の「教団」からなる国だ。それぞれが、何かを信じている。あらゆる種類のタブーがある。宗教はタブーにされた。アタテュルクは今でもタブーである。誰もが公式の歴史言説に洗脳されている。アルメニア問題には、未だ真の意味では取り組むことが出来ない…。

だれかが我々の歴史における大きな嘘に取り組もうとすると、すぐに他の誰かが何かをいいだす。ある人にとっては共和国の建国は(議論の余地のない)タブーである。ある人たちは、オスマン朝のハーレムやそこでの飲酒が知られないようにと奔走する…。

幸運にも新聞記者の誘拐・殺害は過去のものとなったが、もの書きと共和国検察庁との関係をどうしても壊すことができないのである。刑法には、表現の自由の制限につながりえる40の条項が含まれている。

いつでも地雷を踏む可能性があるのだ。昨日、欧州人権裁判所は地雷の1つを指摘した。タネル・アクチャムが起こした訴訟で、刑法301条の存在を理由に、トルコを有罪とした。トルコ刑法には、同様の条項が多数存在する。「兵役忌避の助長」、「わいせつ」、「公正な裁判に対する影響力の行使」、「国家安全保障に関する情報獲得」を行ったと、突然、記事を理由に起訴されるのだ。こうした中に、テロ対策法が含まれることは、もはや言うまでもないだろう…。

政権批判、首相批判は日に日に困難になってきている。驚くべき自己検閲のシステムが働いているのだ。デニズ・フェネリ訴訟で交替させられた検察官に関し少し声が挙がっただけで、他に意見は出てこなかった。公正発展党(AKP)が首長である自治体の不正には全く声を上げることができない。

PKK批判にも、もはや、すでにかなりの勇気が必要である。PKKは自身を批判するものに対し露骨に脅迫を行い、残念ながら脅された知識人は団結できていない。PKKは、自身の全体主義体制、人間を道具とみなす視点、テロリスト行為に手を染めてきたことなどに対し、ジェーナリストが見てみぬふりをするよう望んでいるのだ。(PKKは)トルコ国家に対し我々が示していない寛容を、PKKに対し示すことを期待しているのだ。(PKKは)抑圧された民衆のために戦っていると主張し、PKK批判を慎むよう指示している。

トルコでふつうの読者に対し、正直に語るにも勇気がいる。そもそも誰も新しいことを知りたがってはいない。人々は怒っており、彼らの怒りを代弁してくれることを望んでいる。白か、黒かのトルコを欲している。我々が、自分の所属する「教団」を真っ白に描き、「別の集団」を悪魔に仕立ててくれることを望んでいるのだ…。

つまり、トルコでものを書くには本当に勇気がいるのだ。自分たちのこと、「教団」のこと、、社会のこと、そして国家のこと、そのいずれに対しても…。

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( 翻訳者:山根卓朗 )
( 記事ID:24413 )