Cuneyt Ozdemir コラム:バイラム・ホテル倒壊は殺人事件だ
2011年11月11日付 Radikal 紙

「ヴァンで最初に起きたのは自然災害だった。それについてはどうすることもできなかったと言えるだろう。しかし、一昨日起きたことは明らかに殺人だった」

言葉をごまかさずに、ストレートに昨日ヴァンで起きた事件に名前を付けよう。もはやこれを自然災害と呼ぶことはできない。世界のどこに、マグニチュード5.6の地震で建物が倒れ人々が死ぬところがあるというのか。さらに、今回責められるべきその名前も肩書も分からない人々そして過去の担当責任者も見当たらない。いずれにせよ我々は、新たに地震が起きた地域について話している。今、いくつかの問題について問わなければ、いつ問うのだろう。例えば、なぜだかこれほどまでに建物の安全性が主張された;どこから聞いてきたのかは知らないが、大臣たちは大胆にも「もう地震は起こらない」と言い、人々を安心させた;地震を怖がり、親戚を亡くした人々は説得されて安全ではないこれらの建物に押し込められた。この一連の出来事の名前は殺人である。では、殺人犯は誰なのか。犯人の正体を暴こう。

この殺人犯はたちが悪い。大変楽観的なのだ。あまりにも楽観的であるため科学や知識を無視して、思ったことを頭で考えずに話してしまうのだ。安心させてあげたいのか、転んだ子供を慰めるのと同じように、「大丈夫だ。さあ頑張って行こう」と言って今回のことをやり過ごそうとしている。ここまで楽観的にならずに、少なくとも事態を十分に分析して、診断を素早く適切に下せば、おそらく死にそうな患者を生き返らせることはできるだろう。しかし、そうではなく、我々の殺人犯は楽観的であることをいいことだと考えている。地震の被災地の人々を最初に打ちのめしたのはこの楽観さだった。テントがまだ行き渡らないうちにテントは十分だと言い、食料が十分確保されていないのに、されたかのように振る舞った。さらに重要なのは、見ての通り、被害を受けた建物を、チェックさえせずに安全だという報告書を出したのだ。この楽観さが殺人を犯したのだ。この殺人犯のもう一つの特徴は、性急さだ。

すべてのことがすぐに解決されることを望むが、技術的に、すべてのことをすぐに解決するのは不可能だ。急ぐのは構わないが、この向こう見ずなところが人々を死に至らしめた、なんと不幸なことか。すぐに対策を講じている、もちろん進退窮まって講じた対策は対策になっていない。こうして急いだことにより、人々はあの被害を受けた建物に押し込められたのだ。多少であれ危険な建物に人々を近づけなければ、この冬の寒い日に外で過ごしたとしても、少なくとも彼らの命は救えたはずだ。しかし、そうはならなかった。

この殺人犯のもう一つの特徴は、愚かなところだ。愚かなのだが、それに気づいていないのだ。賢ければとうの昔に調整していただろうし、ヴァンで被害を受けた建物をひとつひとつ検査したはずだ。少なくとも被害を受けた建物への立ち入り禁止の措置を取るべきだった、そう思わないか?しかし、何もせず、何もできず、助けることはできなかった。

そして最も重要なのは、うぬぼれの屋の殺人犯がいることだ。
自分に意見するものよ、災いあれ(とでも言わんがばかりに)・・・「でも」とでも口答えすると、黙らせる。楽観的ではなく現実的になろうと言うと、怒鳴り散らす。「急がずに、発表したことを現実的に実行しましょう」と言うと、とんでもない、頭に卵をぶつけてくる。「調整できていない」と言い、抗議をしようとするものなら、唐辛子スプレーやこん棒を振りかざされるのを覚悟しなければならない。
ここにこうして書くのは、うぬぼれ屋の殺人犯への警告ではなく、反対に、一つの行動と受け取られるだろう。ヴァンで最初の日に起きたのは自然災害である。これについてはどうすることもできなかったと言えるが、一昨日起きたのは、明らかな殺人だった。人間を自然災害で失うことは悲しいことだが、このように完全な殺人行為で失うことには憤りを感じる。

■国際的な不名誉だ!

昨日はロンドンにいた。地震のことを知り、すぐに飛行機のチケットを購入して、帰国した。帰国する途中、BBCでヴァンでの地震に関するニュースが二番目に流れていた。BBCのアナウンサーは、冷めた声のトーンでヴァンの救出作業にあたる人々が滞在していたホテルが倒壊したと伝えていた。「これまで世界中で地震の被災者を救出に行った人々が地震の被害にあうような構図があっただろうか」と考えた。地震の被災者を救出に行き、地震の被災者になるというのは、大変に悲劇的な状況だ。遠いところからはるばる来た親切な日本人はきちんとした安全なホテルに泊まらせてもらえなかったことに対して、我々に責任を問わずに誰に問うというのだ。さらには、もちろん知事や大臣に抗議したということで唐辛子スプレーをかけられた被災者もいる。スローガンを掲げさせるのはもとより、叫ばせ、石を投げさせればよいではないか。これは暴力でも逆上でもない。彼らは母親や父親が亡くなってしまい、怒りをぶつける対象を探しているのだ。怒らせ、叫ばせてやればよい、頭を切りかえなさい、何があるというのだ。地震の被災者に唐辛子スプレーをかけたり、殴ったりということがなぜできるのか。

■地震よりひどい、とんでもない発言

赤新月社のアフメト・リュトゥフィ・アカル代表がヴァン地震のすぐ後に出演したテレビ番組「5n1k」を私は決して忘れないだろう。アフメト氏は自信たっぷりに「テントが足りなくなるということが分かっていた」、そして「(テントが足りないので)人々には、被害を受けていない家にもどってほしい」とし、「世界中どこであれ、これほど多くの人がテントで避難生活を送ることなどできない」と話していた。今日、あのホテルの倒壊の被害にあった人々の耳にこの言葉は響いているのだろうか?

もしくは、都市開発業者やエルドアン・バイラク環境大臣が先日述べたあの格言、「大地震が起きた場所で二度と地震は起こらない、つまりヴァン、エルジシュは最も安全な地域である」という言葉…

誰に責任を問えばいいのか?誰かアドレスを教えてほしい、誰に怒りをぶつければいいのだろう?

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( 翻訳者:小松裕美子 )
( 記事ID:24513 )