トルコで高まる、ヴァンで死亡の宮崎淳さんを惜しむ声
2011年11月12日付 Radikal 紙


宮崎淳氏は、ヴァンの被災者を支援するためにトルコを訪れたが、マグニチュード5.6の第二の地震でバイラムホテルの瓦礫の下敷きになり、崩壊現場から救出された後に亡くなった。宮崎氏の、自身が勤めていた「難民を助ける会(AAR)」への志望動機が、同団体のホームページで以下のように書かれている。

■その志望動機書

「東日本大震災の発生により、先進国のみならず、途上国からも支援が寄せられ、如何に世界が共助で成り立っているかを改めて実感させられることとなりました。東北地方を含め、世界で緊急の援助を必要としている人々に対して今の自分に何かできるかを考えたとき、これまで公共団体やNGOで行ってきた組織運営管理や広報・啓発活動の経験ならば活かせるのではないかと思うに至りました。かねてより平和構築の分野に関わっていきたいと思ってきました。今回の震災を受け、平和構築の意味を含めて、世界各地でより困難な状況にある人々を支援する活動に対する思いが更に強くなり、そうした活動を行っている貴会において、微力でも貢献したいと思い、志望致しました。」
宮崎淳
2011年6月8日

■長AAR理事長:「世界各国からメッセージ」

AARの長有紀枝理事長は、宮崎淳氏が亡くなったことについて、同団体のホームページ上で発言した。宮崎氏が今年の6月にAARに応募したこと、8月に研修を受け始めたこと、9月1日に正規職員となったことを明らかにした。長理事長は、世界中から、宮崎氏の死への悲しみを述べるたくさんの弔意の言葉を受け取ったと述べ、「全てのお言葉に返事をすることができず残念ですが、皆様のお気遣いに大変感謝しております」と言った。長理事長は、発言の中で、トルコで宮崎氏と共に活動した太田夢香氏が宮崎氏に関して述べた次の言葉についても触れた:「生真面目で精力的に活動しつつも、いつも周囲に気を配りながら、笑みを絶やすことない方でした。これからも様々な現場で、一層活躍していただく筈でした。私たちも宮崎さんの訃報がいまだに信じられません。」

■トルコは宮崎氏を忘れない

支援ボランティアであった宮崎氏のために、11月11日にはソーシャルネットワーク上で彼を追悼するキャンペーンが始まった。多くのサイトやブログで宮崎氏に関する文や詩が書かれ、フェイスブックでは彼の名でアカウントが開設された。宮崎氏のページには数時間のうちに多くのメッセージが寄せられた。
ページ上は次のようなメッセージが書かれた。:

「見ず知らずの人を生かすためにトルコへやって来た英雄を、我々は生かすことができなかった。そうならば名前だけでも生かそう。ヴァンに宮崎淳病院を建ててほしい。これをひとつのキャンペーンとするためには、このことをもっと周囲に広める必要がある。」

宮崎氏のためのキャンペーンということに関して、最初に行動に移したのはイスタンブルのバフチェリエヴレル区であった。オスマン・デヴェリオール・バフチェリエヴレル区長は、「素晴らしい宮崎氏の人道性」という題名の書面による発表で、「支援ボランティア宮崎淳氏の名前を、バフチェリエヴレルで新たに建設される地震捜索救助・災害救助・交通教育公園に付けます。ヴァンで命を助けようとしてくれた、賞賛に値する日本の人々を、我々トルコ人は絶対に忘れません」と述べた。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:津久井優 )
( 記事ID:24522 )