ガザのハマス政府高官、トルコにオスマン文書中の地券記録を求める
2011年11月24日付 Yeni Safak 紙

ハマスは、トルコからオスマン時代のガザの地券書と出生・死亡記録を要請したが、対応してもらえなかったと明らかにし、アブドゥッラー・ギュル大統領とレジェプ・タイイプ・エルドアン首相に協力を求めた。

パレスチナ自治政府の内務省民生局長リヤド・ザイトゥーニ氏は、2008~2009年の戦争の際に、手元にあった記録が爆撃により消失してしまい、イスラエルがその控えを渡すのを拒否したと話した。あとは、トルコにおいてこの記録を入手する可能性が残っていること、そのため今年5月にアンカラとイスタンブルを訪問したとし、地券・地籍簿総局と首相府付属の文書館に行き、要請したと話した。

ザイトゥーニ局長は、「地券、ワクフ文書と関わる文書、あるいは出生・死亡記録のような文書というのは、我々にとって非常に重要です。なぜなら、それらは我々の過去を記録し、我々がどこからやってきたのか、その起源を明らかにするものだからです」と話した。

■「我々がどこからやってきたかが分かりました」

ザイトゥーニ局長は、「トルコにある記録から、我々がどこからやってきたのかが分かりました」と述べた。そして、ガザは古くから貿易のルート上であったと強調し、パレスチナにやってきて定住し、結婚した多くの外国人がいたこと、そのうち一部の人々は、オスマン時代のトルコ人だったと述べた。

トルコ訪問で、記録や地券の一部を見たと説明するザイトゥーニ局長は、「探していた人々の名前を記した記録にも遭遇しました。彼らがどこからやってきたのかを示しているのです。トルコにある記録からこうしたことがわかるのです。担当者にコピーを要望しました。それらの一部はまさにオスマン時代の記録でした。さらに一部はアラビア語でした。例えば、サイード・ハスィーム、シャイフ・ザカルヤとアル・サドラ・モスクというように。さらに、このモスクで働いていた人々の名や給与さえ見ました」と話した。ザイトゥーニ局長は、しかしこれらの記録は彼らには渡されず、パレスチナ大使館を通じて申請するように言われたと述べた。

■ギュル大統領とエルドアン首相に呼びかけ

パレスチナは以前独立していなかったこと、ある国から他国へと手渡ったことから、自身のアーカイブがないと強調するザイトゥーニ局長は、次のように話した;

「エルドアン首相には、この記録のうち特にオスマン時代の記録に記された氏名、地券書、出生・死亡記録を要請しています。自分たちの起源を探し出せるかは、この記録にかかっているのです。アブドゥッラー・ギュル大統領にはこうした記録を要請しています。これらの全てはオスマン時代のアーカイブの中にあるからです。この記録は、これらはパレスチナにわたってこそ、役立つものなのです。なぜなら我々に関することだからです。」

■オスマン朝による4世紀にわたる支配

ガザは、2007年以降、西岸で樹立したラマッラー政府から独立してハマス側に管理されている。2つの政府間で、深刻な問題があることから、多くの項目で協力はなされていない。トルコの大使館は、ラマッラー政府を代表している。ガザは、世界で最も古い町の一つといわれている。出土品は、ガザでの人類の歴史は、5000年前までさかのぼることを示している。

古代エジプト、ローマ時代の後にビザンツ帝国の主権下に入ったガザは、635年にイスラムの軍により征服された。その後アイユーブ朝やマムルーク朝が支配したガザは、1516年に(オスマン朝の)ヤヴズ・スルタン・セリムがエジプト遠征をした際に、その帝国の領土となった。オスマン帝国は、1917年11月7日に、ガザから撤退を余儀なくされた。

その後、英国委任統治領に入ったガザは、1948年にアラブ-イスラエル戦争の結果エジプトに、1967年(第三次中東)戦争によりイスラエルの管理下となった。第一次インティファーダから6年後に署名されたオスロ平和合意により、イスラエル軍はガザから撤退した。

さらにその後、イスラエルの植民地が撤退し、ガザは完全にパレスチナ管理となった。しかし、ハマスが政権をとったことにより、ガザは陸、空、海から封鎖され始めた。2008年~2009年戦争でも1000人以上のガザのパレスチナ人が死亡した。

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( 翻訳者:石川志穂 )
( 記事ID:24637 )