Fikret Bila コラム:デルスィム論争をめぐる、2つの誤り
2011年11月30日付 Milliyet 紙

デルスィム事件に関するレジェプ・タイイプ・エルドアン首相の発言を聞くと、次のように思うだろう。デルスィムへの軍事行動を決めたケマル・クルチダルオールCHP党首は、軍の指導者になった。デルスィムへ入り、徹底的に全てを破壊した。人々に武力を行使したのだ、と!

また、ケマル・クルチダルオールCHP党首の発言を聞くと、次のように思うだろう。レジェプ・タイイプ・エルドアン首相は、デルスィムへ不当な行為を行った国家を守るために公文書を隠している!

この議論には「2つの誤り」が存在する。

1つ目は、エルドアン首相とクルチダルオールCHP党首がデルスィム事件を通して与党と野党という立場を踏まえて議論しているということである。

2つ目は、彼らは何を守り何に反対するのかを十分に説明できていないということだ。

■何に賛成し、何へ反対するのか

例えばエルドアン首相は何に反対しているのか。トルコ共和国の主権を認めていないデルスィムの部族長に対し政府が軍事行動を実行したことに対してだろうか。それともこの軍事行動を行った際に、軍人と民間人、市民と野盗、女性、老人、子供の別なく人々が殺され、何千人もが追放されたことに対してだろうか。

同様に、クルチダルオール党首は何に反対しているのか。アタテュルクとその同僚が、共和国統治と法律が実行され得ていない、5千人の部族軍が支配するデルスィムへ軍事行動を行う決定を下したことに対してだろうか。それともチャーラヤンギル警察署長の証言のように、武装しているかどうか、または野盗かどうかを確かめずに、人々が(隠れている)洞窟に灯油をまいて殺したこと、そして残った人々も追放したことに対してだろうか。

もしこの疑問への答えが同じなら、そして人々が体験した悲劇に関心を寄せているなら、その時なすべきは、双方の立場を通じた議論ではない。そうではなくて、集まってこの事件が生んだ問題を人道的観点から共に興味を抱き、そして彼らの傷を共に癒すべきだ。事件について人道的観点から謝罪を求めるのであれば、こうした決定をとるべき場所は国民の意志を表すトルコ大国民議会でなければならない。

デルスィム事件について今日の政治に責任を求めることは、政治的根拠のないあるアプローチである。確かにこの事件の責任はエルドアン首相やクルチダルオールCHP党首にはない。もしそうなら、1907年、1908年、1916年のデルスィムへの軍事行動についてエルドアン首相とクルチダルオールCHP党首が互いに責任を感じ、議論する必要があるなら、これはフン国にまで遡るのだ!

■反乱の3つの側面

全ての反乱、そして全ての鎮圧行動に3つの側面がある。政治的側面、軍事的側面、人的側面である。反乱やその反乱への鎮圧には政治的目標がある。反乱や反乱を鎮圧するには武力を用いるので、軍事的側面もある。反乱時や反乱鎮圧時において、死、虐殺、苦しみ、悲劇があり、これが人的側面である。

国家の歴史にはこの例が数多くある。デルスィム事件もこれらの側面を考える必要がある。トルコ共和国は、1923年9月29日に宣言されたが、組織を整えてアナトリアの土地を全て支配するようになるのは1938年のことであった。1923年の共和国宣言から約1年後、様々な要因や目的で起こった反乱はすぐに1年に1回のペースで1938年まで続いた。

ここに政治的側面が明確に見える。建国したばかりの共和国指導者達は、トルコ共和国がアナトリア全土を支配すること、国家と国民の一体化を築くことを目標とした。その一方で、反乱者達はこの支配へ反対し、部族支配、時には自治、時には独立を、企て守ろうと望んでいた。

共和国は1923年に宣言されたが、1924年にナストゥリ反乱、1925年にシェイフ・サイード反乱、1926年にアール反乱、1927年にムトゥキ反乱、第2アール反乱、1929年にテンドュレキ反乱、1930年にサブル反乱、オラマル反乱、第3のアール反乱、ピュリュミュル反乱、メネメン反乱、そして1937年にデルスィム反乱と直面することになった。

■人道上の罪

人道上の罪が無効になることはない。この暴動や鎮圧時におこなわれた罪や責任を証明できるのなら、確かにこれは調査されなければならない。今日にまで残る傷があるなら、それらも癒されねばならない。協力してだ。

もちろん目的が本当にこれならば…。

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( 翻訳者:榎本有紗 )
( 記事ID:24706 )