Evrim Karakaşコラム:デルスィムについてどのようなことが言われたのか?
2011年12月11日付 Radikal 紙


デルスィムのクルド系アレヴィーが1937年から38年にかけて受けた虐殺事件に関する議論は今も続いていおり、事件と正面から向き合うことが必要とされている。この事件に関して行なわれたアカデミックな研究の貢献は、疑いなく非常に大きい。このコラムも、この事件に関する議論に貢献できることを望むものである。以下に、デルスィム虐殺事件の前、最中、そして終結後に、様々な雑誌や新聞、本に掲載された文章から抜粋を行い、デルスィムが全体主義的なやり方で、どのように「内部の敵」として喧伝され、そしてこの「内部の敵」の殲滅がどのように正当化されたかを、限られた範囲ではあるが、読者に提供したいと思う。

「デルスィムは非常に岩が多く、通るのも困難な荒涼とした場所であり、畑にできる場所や牧草地などは少ない。土地のこの荒廃ぶりは、デルスィムの住民の性格にも影響し、全員が、野蛮、残忍で、人間性と心の豊かさを欠いた状態となってしまった。・・・彼らは非常に不正直で、性格が詐欺師のようであり、機会に便乗しがちであることから、彼らの言葉を信用することはまったくもって騙されるということにほかならない。」(キャーズム・カラベキルの発言。『クルド問題、1909年付報告書』より)

「デルスィムの人間は力の前でのみ屈服する。この屈服には恨みや怒りがこもっており、チャンスを伺い準備をしているタイプのものである。すべての歴史が、デルスィムの人間をこのように言い表す。」(『デルスィム報告書』1932(?)、カイナク出版社、2010年、203頁)

「われわれにとって明白な原則があるとすれば、それは「クルド性(の発露)」という動きが、クトゥ渓谷やカルマン・オジャウと呼ばれる、そして中心にハイダランの部族がいる、かつてのデルスィムの地域に今も巣くっているということである。この「巣」で燃え立つ火花を、周囲に飛び散ることなく消失させることも、アール地方での対策と同じくらい重要で必要な課題である。」(『デルスィム報告書』、214頁)

「デルスィムから水が溢れ出せば?…その時は、デルスィムが大きな頭痛の種の洪水となることを意味し、周囲に狼の群れやハイエナの群れをまき散らすだろう。財産も生活も、それはいかなるものも容赦しない。打ち壊してバラバラにし、壊し、(水は)引いていく」(ナシト・ハック・ウルー『封建領主とデルスィム』、カイナク出版社、2010年、29頁)


「もし封建領主支配derebeylikの問題が単にデルスィムの問題であったならば、この問題はすぐに、それほど時間のかからない、ちょっとした行政上の問題という形になり取り除かれたことだろう。しかし、われわれは封建領主支配を、トルコ革命がもたらしたすべての政治や経済、法の秩序の外にあり、これらの秩序に対して武力で抵抗しようとする、遅れた共同体の在り方の、物理的な機構(つまり、半封建的土地所有)、そしてこの機構の正当性を擁護する精神的な圧力(つまり、シャイフや教団組織の影響力)の問題だと考えている。この農奴制、人間を土地と一緒に売買される『商品』とするあり方、大地で生産者が感情のない雄牛や生き物ではない犂のように無言で無感情に働いていること、さらには、市民精神がこの惨めな奴隷状態対し何もできない黒い泥のような状態に留まっていることこそは、領主支配の有形かつ無形の証拠である。我々は、これらの証拠を、トルコ国土のどこで見つけようと、そこで領主支配の締め上げられるべき喉元を探さなくてはならない。それは、われわれの権利でありわれわれの任務である。・・・・クルド人の領主は、その支配をクルド化されたトルコ人の土地や血、国民、宗教、そして誇りを犠牲にして実現しているのだ。」(シェヴケト・スュレイヤ、『封建領主とデルスィム』、カドゥロ誌、1932年)

「クルド人には、そもそも部族の伝統や宗教の繋がりがあり、また力ずくでの欲求に悪用されがちであるため、領主の目には高い利益を生み出す道具となっている。このため、領主たちは、かれの土地で働くトルコ人も柔順なクルド人と同じ状態にすることを、階級的な精神から、行っている。今日、エラズィズやマラトゥヤに暮らす全ての人がトルコ人でありながら、クルド人化している。今日、この状況はすべての暴力により未だに続いている。・・・クルド語を話す多くの部族の名前は、トルコ語である。例えばアルスランウシャウ、コチウシャウ、フェルハトウシャウ、ラチンウシャウ、カラバッルウシャウといったように。・・・・・クルド人による継続的な攻撃や、継続的な性的暴力を受けてきたトルコ人の村落は、その救いの道を、クルド語を話す部族の中ではその存在を消し去るということに見出してきたのだ。」(イスマイル・フスレヴ、『東部地方における封建領主制』、カドゥロ誌、1932年)

「法律(トゥンジェリ法)が今日、国家の司法組織に提出される理由は、反乱やこれに類似する非常事態ではない。(それは)しばしばな限界まで達する慢性的な病気を、その根源から取り除くことにあるのだ。・・・共和国政府は、伝統と習慣にのっとり、刑罰ではなく、治療としての対応をとる。」(ファリフ・ルフク・アタイ「トゥンジェリ」『ウルス紙』、1937年12月26日)

「デルスィムの人間をトルコ人と考える者たちがいる…私は彼らをいかなる時もトルコ人とは思わない。トルコ人には、野蛮で原始的な生活、残忍性、無慈悲、そして血を飲むような習慣は、本来的に備わっていない。トルコ人はこれとは異なる。人類学的な特徴からトルコ人とデルスィムの人間は別物である。トルコ語もザザ語とは別物である。・・・農業と経済活動に従事しない人々は、いかなる利益も生み出さないことは明白である。教育により、100年かけて、この民族の残忍性や血に飢えた性格、原始性、そしてその遺伝的な人格を改良しようというものもあるかもしれない。しかし、このワシの巣では文明的な人間の子どもは育たないのだ。」(Yマズハル・アレン『ジュムフリイェト紙』、1937年6月29日)

「当時ディヤルバクル航空司令官であったフェヴズィ・ウチャネルは、われわれを集めて任務を与えた。そして『銃を忘れるな!』と言った。私もアタテュルクが与えてくれた銃をこのように一度確認した。これを使うことはないだろうと思っていた。司令官は、この場所では常に『緊急着陸』の危険があることを付け加えた。さらに『生きているものが何であろうと撃て』という命令を受けた。反逆者たちの食糧であるヤギも含め、私たちは撃った。」(初の女性パイロットであるサビハ・ギョクチェン『ミッリイェト紙』、1956年11月25日、インタビュー記事、ハリト・クヴァンチ記者による)

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:24847 )