Derya Sazak コラム:大統領の任期
2011年12月18日付 Milliyet 紙

アブドゥッラー・ギュル大統領の任期に関するさまざまな憶測にエルドアン首相が終止符を打った。ギュル大統領の任期を7年と判断したということを明らかにしたのだ。

面白い。

エルドアン首相の手術までは、公正発展党(AKP)内で大統領任期問題について異なるシナリオが議論されていた。
ギュル大統領は、4月27日の「インターネット覚書(訳者註:2007年4月大統領選に絡み、軍参謀総長がインターネットを通じ警告を発した事件)」の結果、憲法裁判所の決定によりトルコ大国民議会が大統領を選べない事態となった2007年の危機と選挙の後、大統領に就任したのだった。その際、大統領は国民により任期5年で2回まで選ばれるように憲法改正が行われようとしたにもかかわらず、それまでに国民投票が行われなかったため、ギュル大統領の選挙では1982年憲法が適用された。5+5は後に施行されたのだ。通常ならばギュル大統領の任期は2014年で満了となる。
しかし共和人民党(CHP)と民族主義者行動党(MHP)は、総選挙が4年に短縮されたように、憲法改正に基づいてギュル大統領の任期も5年とするべきだと主張している。
野党の意見では大統領選挙は2012年に行われなければならない。
アブドゥッラー・ギュル大統領は自身に関する議論には今日まで加わることはなかった。
最近ではイギリスへの公式訪問の帰りに飛行機で記者たちの質問に対し、この議論への不快感を露わにした。
ギュル大統領がトルコへ戻った週末、エルドアン首相の体調不調が政治の舞台裏に影響した。
首相は消化器系の手術を受けたのだ。
今度はエルドアンの健康状態に関する憶測が始まった。
その頃ある大臣の発言をもとに、大統領のシナリオが再び議論の的となった。
公正発展党幹部は、党の一体性という観点から大統領選挙が2014年に行われる事に賛成だった。公正発展党の票は6月12日の選挙以降、5ポイント(%)増えた。エルドアン首相は「国民により」選ばれる大統領選を50パーセント以上の得票率で迎える事を望んでいた。2014年の地方選挙でも(得票率が)超えるべきラインを50パーセントにおいていた。このようにエルドアン首相はギュル大統領の代わりに2014年に大統領に選ばれ、ギュル大統領は首相となるはずだった。
大統領公邸と首相府の間で、プーチン・メドベージェフ式の「配置換え」が行われるはずであった。
公正発展党幹部によると、党規則もこれを強いていた。
エルドアン首相を含め、党の設立者たちは「3期」となっている国会議員の任期の終わりを迎えようとしている。規則が変わらなければエルドアン首相は選挙に立候補できず、2014年に大統領になるのが唯一の道のようだ。
憲法は首相になるには議員であることを条件としているため、ギュル大統領が首相になるには選挙への立候補が必要となる。選挙までは「ビュレント兄さん」を担ぎ出すという常とう手段が適用される。アルンチ氏が首相になるのだ。
大統領が2014年に変わり、エルドアンが5+5に沿って10年間大統領を務める共和国の100周年に向け、与党の思惑は今日の力のバランスをはっきりと反映している。しかし人生のように政治も時には予定がたたないものである。全く予期しなかった健康問題のように!・・・

2012年は重要な年になる。

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( 翻訳者:南澤沙織 )
( 記事ID:24872 )