Sami Kohenコラム:アラブの春における「トルコ・モデル」にさす影
2012年01月13日付 Milliyet 紙

「アラブの春」が始まって以降、この地域の変革のために「トルコ・モデル」が度々語られている。これに関し、西欧、中東、そしてトルコにおいて無数の発言がなされ、会議が開かれ、記事やコラムが書かれている。

元々、「トルコ・モデル」という用語を最初に使用し出したのはアメリカ人達であった。トルコの政府関係者は、この言葉を適切であると気に入るとともに、公式声明では「モデル」の代わりに「例」或いは「妙案」の様なより控えめな言葉を使用することを好んだ。しかしながら、決まり文句として「トルコ・モデル」という言葉を用いて数々の議論が今も続いている。

BBCの名司会者ティム・セバスチャンは、世界で4億人に視聴されている番組「ザ・ドーハ・ディベート」で、今回テーマとして「トルコ・モデル」を選んだ。この活発な討論番組は(来週放送するため)昨晩ボアズィチ大学で収録された。明日の我々のコラムでは、パネリスト達や出演者達がこのテーマで何を語ったのかを伝えてくれるだろう。番組の収録前に記したこのコラムで、また少し前に我々が参加した複数のカンファレンスで話しの焦点となった「トルコ・モデル」という認識に関し様々な考えを明らかにしたい。

■ どこに民主主義が?

「トルコ・モデル」と言う時、何が意図されるだろう?或いは、より具体的には何が理解されるだろう?上で明らかにしたように、この用語を使い出したのは、トルコをその特質ゆえに、アラブ世界に対する「ロールモデル」として提示することに努めているアメリカ人達である。

西欧の政府関係者達、知識人、そして作家達がこの言葉に感じとっている主な特質は、トルコが自由で民主的な国である、というものである。これは同時に国民のほとんどがムスリムである国が、近代的法治国家になりうるという、例証とされているのだ。アラブ地域の人々が、自由と正義、そして民主主義のために奮闘する情況の中で、一見したところ、トルコがこの問題で歩んだ道のりは、例とみなしうるということだ。

しかしながら、昨年11月にイスタンブルで開かれたトルコ社会経済調査協会(TESEV)のシンポジウムで講演したチュニジア人のある知識人が語る所では-民主主義と公正の文脈では-いまだ「成熟した」トルコ・モデルはないと主張された。この講演者は、他のアラブ諸国から来た者達同様に、トルコにおいて新聞記者達が収監されていること、容疑者達の長期勾留、そして言論の自由が様々な形で制限されていることを例として示し、そして「アラブの各都市の路地でデモを行っている者達は、元々これらのことが(彼らの国に)無いために闘っているのだ」と語っていた。

■ 西欧諸国は何故黙っているのか?

トルコを注視している者達は、トルコ国内の政治の中で起こっている出来事にとっくに気づいている。明らかにこれらの出来事は、「トルコ・モデル」に何らかの陰を差している。最近、西欧のメディアにおいて、こうした否定的な出来事は批判されている。しかしながら、アメリカ、EUいずれも、政府筋は沈黙している。わかるのは、中東における複雑な情勢の中で、各国の戦略的な利益を優先させ、またアンカラで反発を生み出す可能性のある発言が避けられているということである。

「トルコ・モデル」に含まれている重要な特徴である世俗主義に関するアラブ世界における認識は、また別の議論のテーマである。エルドアン首相のカイロにおける世俗主義の擁護発言は、リベラルな傾向があるムスリム達に歓迎されはしたが、しかし広範な宗教的保守層の厳しい反発を招いた。この種の基本的テーマにおいて、分裂しているアラブ社会の全てが「トルコ・モデル」を受け入れるなどと期待しないでおく必要がある。

上で紹介したTESEVのシンポジウムで、あるエジプト人識者がこのような話しをしていた。「アラブ人達は、自身の特徴に応じ、自分たち自身の各モデルを発展させることを好むであろう。」

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( 翻訳者:濱田裕樹 )
( 記事ID:25185 )