伝説のサッカー選手レフテル、ビュユクアダに埋葬
2012年01月15日付 Yeni Safak紙

亡くなったトルコのサッカー界とフェネルバフチェの伝説的選手レフテル・キュチュクカンドンヤディスは、ビュユクアダで行われた葬儀後に埋葬された。

レフテルの遺体は、フェネルバフチェのシュクル・サラチオールスタジアムで行われたセレモニーのあと船でビュユクアダに運ばれた。彼の遺体は、船から担がれて島に引き上げられ、葬儀のためにアヤ・ディミトリ教会に運ばれた。

レフテルのために、ビュユクアダで行われた葬儀にEU加盟交渉担当大臣エゲメン・バウシュとイスタンブル県知事ヒュセイン・アイニ・ムトゥルも参加した。また、フェネルバフチェの副会長ニハト・オズデミルとともに、多くの役員、レフテルの家族と親戚、ビュユクアダの知人とファンが参加した。葬儀中には教会に人がいっぱいになり、教会の外にもたくさんのファンがやってきた。

教会で行われた葬儀の後にレフテルの遺体は拍手と喝采とともに馬車に載せられて埋葬されるためにビュユクアダのギリシャ正教会墓地に運ばれた。

■バウシュ大臣「レフテルは、この国の象徴の一人だ」

教会での葬儀で祈りが詠み上げられた後、レフテルへの弔辞が読み上げられた。バウシュEU加盟交渉担当大臣が読んだ弔辞では、レフテルが(選手として)10番としてプレイしたにとどまらず、人生でも10番であり続け、模範となるふるまいによってトルコのとても重要な人物の一人であったことを述べた。

バウシュ大臣は、「レフテルは多様性は豊かさであると私たちに教えてくれた一人である。この国の象徴の一人である。今日ではここで彼に別れを告げる時でさえ、生前行っていたすばらしいことをもう一度行った。(葬儀に際して)この国をまとめあげたのです。朝のフェネルバフチェ・シュキュル・サラチオールスタジアムでのセレモニーとこの教会でトルコのあらゆる色彩、あらゆる豊かさをひとつにすることを今一度私達に示したのです」と話した。

また、レフテルは愛、寛容、愛情、敬意をわれわれに残したとし、「今後彼の遺産をさらに強固にすることは私達の仕事です。レフテルにふさわしい振舞を、今後みんなで示していくつもりです。痛みと敬意を伴った使命を実現する喜びを感じています。安らかに。ご家族、友人、全ての国民にお悔やみ申し上げます」という形で話した。

■ファンはレフテルにビュユクアダで常に付き従った

フェネルバフチェ・シュキュル・サラチオールスタジアムでのセレモニーでレフテルの最後の旅立ちを見送ったファンは、トルコサッカー界の「名誉教授」にビュユクアダで常に付き従った。何百ものファンがボスタンジュ港を出港したシーバスと車でビュユクアダにやってきた。ファンは、教会での葬儀の後にも参列者を運ぶために島に来たミニバスで墓地まで移動した。

■フェネルバフチェに1947年から1964年まで在籍した

レフテル・キュチュクカンドンヤディスは、1925年12月22日にイスタンブルで生まれた。

フェネルバフチェに1947年から1964年までの間在籍したレフテルは、イスタンブルプロリーグで2回、トルコ国内リーグで3回優勝した。

生涯で832ゴールを決めた伝説的サッカー選手は、フェネルバフチェのユニフォームを着て出場した615試合で423ゴールを記録し、イスタンブルリーグで1953年-1954年シーズンの得点王になった。

50試合トルコ代表となった「名誉教授」というあだ名のレフテル・キュチュクカンドンヤディスは、さらに国外でもイタリアのフィオレンティーナとフランスのニースに在籍した。レフテルは、1年間だけヨハネスブルクで選手兼トレーナーとしてプレーした。

レフテルは、1965年-66年シーズンに引退後サムスンスポル、ボルスポル、オルドゥスポル、シヴァススポル、メルスィン・サッカークラブで監督をした。

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(翻訳者:新井慧)
(記事ID:25216)