ディンク殺人事件裁判、5年間の歩み(1)
2012年01月17日付 Radikal 紙

アゴス新聞編集長であったフラント・ディンク氏殺害に関する裁判は、25回目の審理で結審に至った。約5年にわたった裁判に、イスタンブル第14重罪裁判所は判決を下した。

判決までの道のりを振り返る。

5年間に何が起きたか

2011年6月2日
被告であるアリ・オズ大佐は職務怠慢で有罪となった。トラブゾン簡易刑事裁判所は、当時トラブゾン軍警察の連隊長であったアリ・オズ大佐、部下のメティン・ユルドゥズ、ヴェイセル・シャーヒン、オカン・シムシェキ、ハジュ・オメル・ウナルドゥ、フセイン・ユルマズの6名を職務怠慢とし、与えうる最も厳しい処罰を下した。上司のアリと部下のユルドゥズには懲役6か月、他の4人には4か月の禁固刑を言い渡した。また、ガーズィー・ギュナイとオンデル・アラルの2人は無罪となった。

2010年5月10日
この日に開かれたフラント・ディンク氏殺害事件裁判の第13回審理では、エルスィン・ヨルジュ被告とアフメト・イスケンデル被告の釈放が決められた。これにより、被告が20名に及んだ裁判で拘置されている者は残り3名となった。

2009年7月6日
第10回審理の途中、オギュン・サマスト被告が被害者の遺族を恐喝した。審理の半ば、事件の目撃者の一人メスメ・ハッヴァは、オギュン・サマスト被告が殺害を実行する際一人ではなかったと証言し、現場にはもう一人ヤスィン・ハヤルがいたかもしれないと話した。午後の休憩の後、審理室に戻る際オギュン・サマスト被告は、前を横切る遺族に対し「待っていろ、5年後また会おう」と言って恐喝した。弁護士の申し出により、裁判所はオギュン・サマスト被告について、共和国検察に告訴されるよう決定を下した。

2009年6月17日
ヨーロッパ人権裁判所がトルコ政府に対し、11月までに質問に答えるよう要求した。ヨーロッパ人権裁判所は、フラント・ディンク氏及び事件後に遺族の弁護士が提出した5つの訴えをまとめて、調査を始めたほか、トルコ政府に11月までに回答するよう質問を送った。訴えは、ヨーロッパ人権条約の「生存権侵害」「訴訟権」「公正な裁判を受ける権利」「言論の自由」「差別の禁止」条項に基づいてなされた。

2009年5月6日
トラブゾン第2簡易刑事裁判所は、フラント・ディンク氏が殺害される前に、対策を講ぜず「職務怠慢」な行為があったとして起訴されている、軍警察官2名、及び当時の連隊長で大佐のアリ・オズ被告とその部下5名への裁判を一つにまとめた。

2009年1月5日
トラブゾン第2簡易刑事裁判所は、被告アリ・オズ大佐とその部下5名に関する「職務怠慢」の起訴状について、第一審刑事裁判所による審問が必要であると判断し、管轄外との決定を下した。検察はこれに反対した。

2008年12月29日
トラブゾン共和国検察は、フラント・ディンク氏殺害を阻止することが出来なかったのは怠慢であったとして、トラブゾンの6名の軍警察官に関する起訴状を、トラブゾン第2簡易刑事裁判所に提出した。訴状が受託されれば、当時トラブゾン県軍警察連隊長のアリ・オズ大佐、部下のメティン・ユルドゥズ、ヴェイセル・シャーヒン、オカン・シムシェキ、ハジュ・オメル・ウナルドゥ、フセイン・ユルマズの6名は「職務怠慢」罪で最長で禁固2年の判決が下される。

2008年11月12日
首相府監査局の1年半にわたる調査が終わり、事件報告書が完成した。報告書では、フラント・ディンク氏殺害に関して職務を怠ったとしてトラブゾン警察、トラブゾン軍警察およびイスタンブル警察の責任者について調査を始める必要があると発表された。また報告書には、ヤスィン・ハヤルがマクドナルド爆破事件の前に使っていた新しい電話番号がみつかったことや、彼が何度も外国を訪れていた証拠がみつかったほか、身分照会のため法務省が許可を与えなかったことも記録されている。

2008年10月28日
ディンク氏殺害において、職務怠慢としてトラブゾン県により裁判が認められた当時のトラブゾン県軍警察のアリ・オズ大佐が、この地域の地方行政裁判所に行った異議申し立ては却下された。これによりアルバイ・アリ・オズほか5名への捜査が正式に開始された。

2008年10月24日
ヤスィン・ハヤルの兄オスマン・ハヤルの裁判が始まった。イスタンブル共和国検察により用意された訴状によると、オスマン・ハヤルには「殺人ほう助」及び「違法組織の一員である」という罪で、懲役22年6カ月から35年の懲役刑が求刑されている。オスマン・ハヤルは、フラント・ディンク氏殺害裁判の20番目の被告として裁判にかけられる。

2008年10月22日
サムスン第4第一審刑事裁判所で裁判中のサムスン警察の関係者のうち、当時テロ対策課課長補佐メティン・バトラと、警部のイブラヒム・フラトが無罪となった。

2008年10月20日
フラント・ディンク氏殺害において、(事件前の)情報収集に怠慢があったとして軍警察官2名が被告となっている裁判が重罪裁判所で審問されるためにトラブゾン第2簡易刑事裁判所が下した管轄外決定は、上級裁判所により破棄された。これにより、軍警察士官2名の裁判は引き続き、トラブゾン第2簡易刑事裁判所で行われることとなる。

2008年9月26日
トラブゾン簡易刑事裁判所で職務怠慢の罪状で裁判にかけられている軍警察士官2名の審理で、初めて証人として意見を述べたフサメッティン・ポラトは、アリ・オズ被告が、ジェンギズ・イージからもたらされた情報を信用していなかったと語った。またチョスン・イージについても、フラント・ディンク氏殺害の後「右翼だ、左翼だと話さないように」警告したがっていたと語った。裁判所は、本件が重罪裁判所に送られるよう望んだ。

2008年9月25日
ディンク家は弁護士を通じて、イスタンブル地方行政裁判所の裁判官であるアティッラ・サルプ、イルハン・ハナアス及びサーデッティン・ヤマン各氏について、司法および行政上の捜査を開始させるよう、「裁判官・検察官高等委員会」に不服を申し立てた。この申立書には、イスタンブル警察の警察官に関し、裁判官が根拠のない決定で、捜査許可が出される余地はないとの決定を下すことは、憲法やヨーロッパ人権条約に反することになり、また、裁判官がこの決定を下せば、裁判官が公平に裁いていなかったということへの深刻な証拠データとなると述べられている。

2008年8月23日
ヤスィン・ハヤルの兄オスマン・ハヤルは朝方、裁判所へ移送された。検察官の取り調べの後、オスマン・ハヤルは釈放された。

2008年8月19日
ヤスィン・ハヤルの兄オスマン・ハヤルが拘束された。事件当日、彼の電話がイスタンブルからかけられていたとして拘束され、匿名の証人により面通しが行われる。

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( 翻訳者:池永大駿 )
( 記事ID:25239 )