ディンク殺人事件裁判、5年間の歩み(4)
2012年01月17日付 Radikal 紙

■2007年6月29日
ヤシン・ハヤルが検事への手紙で、「我々を警察から合法か違法かわからないが、我々をあるグループがコントロールした」と述べた。愛国勢力結集団体の調査で明らかになった電話の会話で団体の副総裁ヴェダト・シャンル氏とネジャト・メテ氏との通話で、「昨日の殺しは我々の仲間の仕事かい」という問いに、シャンル氏が「そうだ」と答えたことがわかった。

■2007年6月22日
トラブゾン県軍警察司令官のアリ・オズ氏と5名の職員について捜査許可が下りなかったことに弁護士団が抗議した。

■2007年5月10日
ディンク殺人調査において、県警の情報部がイスタンブルへ送ったエルハン・トゥンジェルに関する48ページの報告書が破棄されたことがわかった。

■2007年4月20日
フラント・ディンク殺人事件に関する捜査の際に、イスタンブル共和国主席検察局は、トラブゾン県警関係者たちが証拠隠滅をはかり、また自分たちに情報と書類の隠匿をしたことを確認して11項目にわたり列挙した懸案(の書類)を、職務不履行との理由でトラブゾン共和国検事局へ送った。

■2007年3月28日
フラント・ディンク暗殺のカギを握る人物であるエルハン・トゥンジェル氏がトラブゾンで逮捕された時、警察が彼へ他の容疑の供述内容を教え、彼の情報を聴いた後、釈放したことを明かした。ディンク殺人事件に関する捜査で逮捕され、トゥンジェリ氏の同居者であるトゥンジャイ・ウズンダルが警察へおこなった供述で、他の容疑者の供述内容がトゥンジェルへ教えられたということがわかった。

■2007年3月27日
フラント・ディンク殺人事件と関連する捜査で逮捕された大統一党所属トラブゾン支部代表のヤシャル・ジハンは、供述の中でエルハン・トゥンジェルとヤシン・ハヤルがディンク殺人事件を計画したことはトラブゾンで誰もが知っていると強調した。新聞報道によると、ヤシャル・ジハンが事情聴取で「彼らにこの計画を諦めさせたかったが、無理だった」と話した。

■2007年3月22日
エルハン・トゥンジェル氏がトラブゾン県警情報部でムヒティン・ゼニト(M.Z)という名の警官と電話で話したことがわかった。6か月前トラブゾン県警からバイブルトへ転任したM.Zがエルハン・トゥンジェルへ「君たちが事件をおこなったのかい。事件を私に説明したように。ヤスィンが撃ったのかい」という質問をしていたことがわかった。

■2007年2月28日
県行政委員会は(イスタンブル県警情報部部長)アフメト・イルハン・ギュレル(A.I.G)の捜査へ許可を出した。アフメト・イルハン・ギュレルは専門家の報告がなかったため、またディンクの遺族は他の捜査員に対して捜査の許可が下りなかったために、それぞれこの決定に抗議した。

■2007年2月26日
予備報告書で監察官はアフメト・イルハン・ギュレルの捜査許可を出す必要性を訴えた。

■2007年2月22日
トラブゾン警察署職員について、遺族の不満やマスコミの情報を受けて、内務省の独自捜査が始まった。この捜査の間、監察官は、エルハン・トゥンジェルが違法に情報提供の手助けをしていたことや「血のついたズボン」に関して、これは殺人を犯した後に付着したものであること、このため裁判と関わる仕事であるとの理由で、調査を終了し、2007年2月22日に作成した報告書、ファイル及び文書をトラブゾン共和国検事局へ提出することを決定した。

■2007年2月6日
フラント・ディンク暗殺計画者の一人とされるエルハン・トゥンジェルが、ヤスィン・ハヤルがフラント・ディンクを暗殺することを2006年2月に警察へ伝えていたこと、またトラブゾン県警がこのことをアンカラ県警とイスタンブル県警へ報告していたことが明らかになった。

■2007年2月4日
アフヨンカラヒサル・アタテュルクスタジアムで、観衆はディンク殺人事件を支持するスローガンを掲げ、「我々はみなオギュンだ」と叫び、白いベレー帽を被った。

■2007年2月2日
殺人容疑のO.S(オギュン・サマスト)がサムスンで捕まった後、アタテュルクの言葉が書かれたトルコ国旗のポスターの前で彼がポーズをとっている写真や警察官と共に映っている映像が明らかになった。

■2007年1月30日
トラブゾン県警は、「カギを握る人物」エルハン・トゥンジェルが提供した新聞記者フラント・ディンクが殺害されるとの情報を、事件の11か月前にイスタンブル県警へ伝えていたといわれる。

■2007年1月24日
警察署での事情聴取の後ベシクタシュ司法当局へ連れられたヤスィン・ハヤルは、新聞記者達へ「オルハン・パムク、わかってるよね」と言った。同じ日に司法当局で扇動者ヤスィン・ハヤルと殺人容疑のO.S.が初対面を果たした。その際、O.S.はハヤルに「なぜおれに殺させたんだ」といったことがわかった。彼は「ヤスィン・ハヤルが殺せ」と言ったので、「殺しました」と供述した。

■2007年1月23日
ヤスィン・ハヤルが事件前トラブゾンで元陸軍大佐と頻繁に会っていたことがわかった。ヤスィン・ハヤルが、「ナショナリスト」思想で知られ、トラブゾンで影響力のある「集団」と関係があるとされる元陸軍大佐H.M.B.との面会で影響を受け、ディンク殺人事件を計画した可能性があると発表された。O.S.とヤスィン・ハヤルが育ったペリトリ地区では軍警察により地区の拡声器で市民に情報提供しないようアナウンスしていたことがわかった。

■2007年1月21日
追跡の結果、1月20日土曜日23時ごろにサムスンのバスターミナルで容疑者O.S.の身柄を確保したと発表された。殺人容疑者のO.S.は、サムスンで捕まった後、軍警察の詰所でおこなった供述で「事件を1人で実行しました。ディンクのインターネットへの記事を読んで、気に障ったので殺そうと思い、イスタンブルへ行って実行しました」と述べたこと、イスタンブル移送後に最初の供述では暗殺実行の前にトラブゾンの高原で射撃訓練をしていたこと、10人の若者の中で武器を手にしてはやく走ることができるので自分が選ばれたと明かした。イスタンブル県警本部長のジェラレティン・ジェラフは、事件にはいかなる政治的側面や組織とのつながりもなく、暗殺がナショナリスト的感情で行われたと明らかにした。

■2007年1月20日

オギュン・サマストの親族は軍警察に連絡を取り、犯行をオギュンがおこなったと伝えた。友達とイスタンブルへ行くと述べた通報記録の日付は9日後のものとされた。この通報記録は裁判のファイルにはない!(ディンク殺害計画の情報を事前に得ていた)容疑者の軍警察の(オカン・)シムシェキと(ヴェイセル・)シャーヒンの裁判のファイルからでてきた。追跡の結果1月20日土曜日23時にサムスンのバスターミナルで容疑者O.S.の身柄を確保したと発表された。

■2007年1月19日
フラント・ディンクは、ハラスカルガーズィ通りにあるアゴス新聞社から出た15時ごろに武器による襲撃を受けてその場で死亡した。

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( 翻訳者:榎本有紗 )
( 記事ID:25242 )