サッカークラブ(アンカラギュジュ)にみる軍民関係
2012年01月29日付 Yeni Safak紙


トルコサッカーのスーパーリーグで現在、経営難に苦しんでいるアンカラギュジュ(「アンカラの力」の意)は、アマチュアサッカー選手で試合に臨み、給料はサポーターが仲間内で集めた資金で支払われている。面白いところは、30年前にアンカラギュジュを特別法で1部リーグに昇格させことで知られるケナン・エヴレン元将軍も近頃困難な日々を過ごしているということだ。さて、1世紀の歴史を持つクラブの軍民関係をも映し出す興味深い歴史とは・・・。

トルコで最も歴史のあるクラブの内の一つであるアンカラギュジュは、リーグで困難にぶつかっている。リーグの終盤を迎えたアンカラギュジュの多くのスター選手は給料をもらえないため、チームを離れた。こんな事態にもかかわらずチームを離れないベテラン選手たちと下部組織から来た若い選手たちがリーグで誇り高き戦いを繰り広げている。ベシクタシュとの引き分けやアウェーでの勝利は、その結果だった。サポーターは全力でチームを支えている。メルスィンでのアウェーゲームでの勝利の後、仲間内で集めた資金をボーナスとして選手たちに分け与えたサポーターたちは、スタンドをも埋め尽くし、ほとんど身寄りのないチームを全力で支援している。先週ガラタサライに対して歯が立たなかったアンカラギュジュを、さらに困難な日々が待ち受けているのは明らかだ。ここのところアンカラギュジュのように困難な日々を送っているクラブの名誉会員ケナン・エヴレン氏が大統領だった時代、特別法で1部リーグに昇格したアンカラギュジュの歴史に目をやると、一サッカーチームの歴史だけでなく、共和国の歴史で常に議論の的だった軍民関係がよく分かる。

■フェネルバフチェにまで勝てとは言わなかったのに・・・

1978年に無残にも2部リーグに降格し、そこで3年間戦ったアンカラギュジュを、当時のケナン・エヴレン大統領が1981年にトルコで前例のない形で1部リーグに昇格させた。ケナン・エヴレンは行われた法規の変更と、その年だけ有効な規則でアンカラギュジュを一部リーグに昇格させたことで、クラブから最も偉大な名誉会員とされていた。しかし1982/83年のシーズンはアンカラギュジュにとって再び困難なシーズンになった。その年2部リーグで戦っていたゲンチレルビルリーは絶好調だった。ケナン・エヴレンは首都のサッカーチームについての話題で、「ゲンチレルビルリーはきっと今シーズン一部リーグに昇格するだろう。私はアンカラギュジュにも連絡をし、私に恥をかかすなと言った。もし恥をかかせたらもう何もしてやれないぞと言った」と語っていた。この言葉を指令として受け止めたアンカラギュジュは次々に勝利を収め、最下位から6位に浮上した。アンカラギュジュは、その年のチャンピオンシップでも戦っていたフェネルバフチェにも勝利した。アンカラギュジュがフェネルバフチェに勝った事に対するケナン・エヴレンの「私に恥をかかせるなとは言ったが、我らがフェネルバフチェに勝てとは言わなかったのに」との発言はその日の新聞に大きく取り上げられた。

■オザルタイを武器で脅迫した

1940/1941年シーズンの国内リーグを戦うためにアンカラギュジュはイズミルに行った。その日の最初の試合でイズミルスポルに3対1で勝ったアンカラギュジュは、アルタイとの第2試合、1対0で負けている状態でハーフタイムを迎えた。チームのメンバーは、元アルタイの選手だったヴァハプ・オザルタイがゴールを決めたがっていないと考え、この状況をイブラヒム・ソムチェリキ団長に訴えた。団長は軍部出身で、腰には拳銃を2丁携帯していた。ソムチェリキはオザルタイを呼び出し、プロのサッカー選手がこのような間違いを犯してはいけないと伝え、腰につけた武器を取り出し、足元へ打った。この恐怖からオザルタイは後半、相手側の陣内に攻め、2本のシュートを決め、アンカラギュジュは2対1で試合に勝利した。

1941年の軍事施設のチーム創設の決定に基づき、アンカラギュジュは参謀本部が1941年9月29日に出した軍事スポーツの法令でリーグから抜け、軍のスポーツクラブとなった。法令によると、全ての軍事工場はスポーツクラブを一つつくらなければならなかった。アンカラギュジュはこれ以降、軍事工場総工場長でスポーツチーム代表のスッル・セイレキ将軍の指令でリーグから退き、軍事工場代表として試合に出始めた。7年間軍部の管理下に置かれたアンカラギュジュはこの状況に嫌気がさした。当時のクラブの幹部たちはサリヒ・オムルタク参謀総長に再び(チームを)民営化することを求めた。幹部たちの意見を認めたオムルサク参謀総長は幹部たちの要求を裏切ることなくアンカラギュジュから軍部の手を引いた。

■チームカラーはアタテュルクが決めた

アタテュルクは1926年の半ば、国の重鎮と共に軍事工場とアンカラギュジュを訪問した。訪問の際、旬の果物だったアンカラの有名な大きな実のブドウとメロンがふるまわれた。アタテュルクはこれを食べた時、この果物について次のように語った:「ブドウはブドウ糖が最も豊富な果物だ。人に力を与える。様々な種類があるが、中でもアンカラで多く栽培されている実の大きな濃紺のブドウは最も重要だ。ブドウの濃紺色は力の象徴だ。メロンはウリ科である。特別栄養があるものではない。黄色、緑、ピンクに渡る色の種類がある。黄色は野望や成功の象徴である。人は成功の後に大きな誇りを感じる。」
この言葉を指示ととった当時のアンカラギュジュの幹部たちはチームの色を黄色/濃紺色とした。

■軍の影響が感じられ始めた

アンカラギュジュがリーグでの活動を続けていた頃、参謀本部が1941年9月29日に施行した第93号軍部スポーツ法令の「軍事工場は、本部に一つのスポーツチームと各工場に一つの軍事スポーツ組織に責任者を置かなければならない」という条項により、この日以降同じ名前とユニフォームの色で、軍部工場総工場長でスポーツチーム長のスッル・セイレキ将軍の管理下で軍事委員会の下に活動を続ける事になった。第93号法令が出る前は、軍部には「産業兵卒」が設けられていた。サッカートルコ代表チームの有名選手たちからはベシクタシュのシュクリュ・ビレスィンとガラタサライのナジ・オズカヤが軍事工場の産業兵卒としてプレーしており、第93号によるとアンカラギュジュのメンバーだった。

■試合を判定する審判が見つからなかった

軍部リーグではアンカラギュジュが、民間のリーグではゲンチレルビルリーが優勝した。アンカラ・チャンピオンシップのためにはこの2チームが対戦しなければならなかった。両クラブ間の対立にさらに軍民の違いが加わると、この試合をみる審判を見つけるのは困難だった。結局サッカー協会は元会長のハリム・チョルバルの提案で、ガーズィ教育研究所で教師をしていたイギリスの協会に属するプライアー氏との契約が結ばれた。試合が2対2で続いている時、サクサーン・メフメトの目の前に素晴らしいボレーを打ったケナン・チョラクはアンカラギュジュを3対2でリードに導いた。しかしイギリス人審判は、ケナン・チョラクの前にいた仲間に「離せ」と言ったとしてゴールを取り消した。ここにスポーツマンシップに反する事態はなかったと主張する4人のアンカラギュジュの選手は退場となった。結果、ゲンチレルビルリーに4対2で負けたアンカラギュジュはアンカラ・チャンピオンシップを手にする事ができなかった。

■アンカラギュジュへ特別な規則

そして有名なエヴレンの干渉・・・1980/81年シーズンの終わり、アンカラギュジュは一部リーグに昇格できなかった。首都からは一部リーグに在籍するチームは1チームもいなかった。アンカラのサッカーファンはトルコの3強であるフェネルバフチェ、ガラタサライ、ベシクタシュを観る事ができないでいた。その上、試合の収入で賄われるオンドクズ・マユス・スタジアムの修理も出来ないでいた。当時のムスタファ・ギュニュル・アンカラ県知事はスポーツ連盟に「私に年に5千万リラ払うか、アンカラから1チームを一部リーグに入れてくれ」と不満を漏らしていた。この不満は当時のエヴレン大統領の注意も引き付けた。ケナン・エヴレンはその年トルコ・カップをつかんだアンカラギュジュに対し、国家元首カップも手にした場合、一部リーグに引き上げると約束した。リーグのチャンピオン、トラブゾンスポルと行われた国家元首カップの試合にナムズィ・エルデムが打ったゴールで1対0で勝利したアンカラギュジュは、行われた法規の変更と、その年だけ有効な規則でトルコ一部リーグに昇格した。こうして軍は一時期自らの管理下に置いていたアンカラギュジュに義理を果たしたのだ。

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(翻訳者:南澤沙織)
(記事ID:25379)