Etyen Mahçupyan コラム:AKP のディンク訴訟での問題
2012年01月26日付 Zaman 紙

フラント・ディンクの殺害が、他の非ムスリム殺人のように、トルコにナショナリスティックな雰囲気を生み出して、「脱『トルコ(国民文化)』」の宣言がなされることになるAKP(公正発展党)政権に対するクーデターの心理的基盤を作る目的で行われたということは、もはや皆が知っている。

もともとこれはAKP党員にとっては初めから明らかな事実であった。事実、事件の夜、政府の人間の中には、この事件が直接政府に対して起こされたのだと理解していた者もいた。それなら政権与党は、今日までのディンク訴訟での、最も簡単な言葉でいうところの、「臆病な」態度をどうやって説明すべきであろうか?「裁判が行われずに、司法がやりたいことだけをやった」と言う表現は、ただむなしく響くだけである。もし政府の人間が自分にやましいところはないと思うなら、自らの権限に関して、何も知らないでいるべきだ。なぜなら、政府はいかなる国政調査権をも結果に結びつけてこなかったように、内務省に対する捜査を行うことさえできなかった。フラントを間接的に脅していたMIT(国家諜報機構)から証拠隠滅者に至るまで、数十人もの人間が罷免されることなく、それらの多くの人は昇進した。要するに、AKP政権はディンク訴訟と、できるだけ距離を置き、目をつぶろうとしたのだ。こうした風はやってきては通り過ぎ、自分たちにたいして吹くことはないと思い込もうとした。

しかし、司法の知性を欠いた決定は、望むと望まざるにかかわらず、政府をすべての責任とともに裁判の一当事者としており、また避けられない疑問が私たちの前に立ちふさがってくる。すなわち、この殺人事件をAKP自身に対する行動だとみなしているのに、AKPはどうして何もしようとはせず、さらには無神経でいれるのか?

そこには、メンタリティー(物の見方)から政治にまでいたる4つの理由があるように思われる。メンタリティーにおいては、イスラム保守層が昔の国家を素晴らしいものと美化し、それに依存していることについて言及する必要がある。単に、スンニ派(ハナーフィ)の伝統ある権力に従うことにより、心に呼び覚まされる前向きな感情ゆえにではなく、混沌とした社会を恐れることにより、もちろん数百年にも達するオスマン帝国の経験の結果として、トルコにおいては宗教的に敬虔な者らの国家がいざとなったら助け、それに対して誰にも反対意見を言わせず、国家の過ちを、ともかくシステムの外に追いやり、個人的な過ちに還元する傾向がある。この理由は、社会が自身のアイデンティティを直接自身の文化によって主張できず、また前述のアイデンティティの存在や存続を国家の存在に頼ることにある。こうした考え方は国家を批判することはもちろん、国家を客観的にみることをも妨げるように、国家の設立理念から生じる権利の侵害が、「異質なるものの意図」という点から正当化される理由となっている。AKPも結局この保守層から生まれているし、国家に近づくことが、楽に政治組織を支配することにはならない。

二つ目の理由は、メンタリティーと政治が合流する地点をシンボライズしている。AKPは次々と選挙で勝利をおさめ、得票率50パーセントを持つ政党である。その指導者はもはや「熟練の時代」に入っていると言っている。つまり、AKP政権はもはや国家を支配しており、裏で衝突(政争)など起こっていないように見せようとしている。これは、理解できる。なぜなら後ろでこのように社会を支えている政府が、社会に向かって、「私は官僚を支配できない」などと言うとは考えられない。このような状況があれば、政府も緊急に何らかの措置をとり、その官僚たちを「ただす」ことが期待される。他方AKP政権は自らの自信の一部として、そして彼らが考える改革の保証として、国家を「処罰せずに」変えようとしている。変化のダイナミズムを、国家がAKPの下で新たに統合されることと並行している起こるプロセスとして、思い描いている。この状況は政府が官僚の上に立つことを難しくしている。

その他の2つの理由は、完全に政治的な性質のものである。一つは、エルゲネコン訴訟とその捜査がうまく進むためには、官僚の一部からの支援が必要であるということだ。したがって、ディンク殺害で、少なくとも「職務怠慢」として名前があげられた多くの人は、今日エルゲネコンの軍部内シンパが暴露されることにおいて政府にとって重要な手助けをしている。しかし一方、ディンク訴訟が深まりを見せれば、これらの人物らの尋問が明らかとなり、たぶん間接的にエルゲネコンとのかかわりが明らかになっていく。それゆえ政府は特に治安組織(警察)に関わってくるとして、自分たちは手が出せないと感じているのだ。最後の理由は、どうして直接、軍部内シンパに立ち向かうことができないのかということを物語っている。なぜなら、そこには「クルド問題」があるからだ。さまざまな治安上の不安定要素に加え、さらにPKK(クルディスタン労働者党)は話し合いの場で提案されるあらゆることに満足しないだろうという考えに至ることで、改革に着手する前にPKKの弱体化が必要であると考えるようになった。これは軍部の支持を是が非でも必要とし、「軍部に信頼を寄せる」政府であることを示した。もしも、クルド問題が交渉の方向に向かっていたら、おそらく政府もディンク訴訟で倫理を政治より優先させる、より勇気ある方針をとれたであろうに。しかし、PKKとの闘争は政府に官僚主義を余儀なく受け入れさせ、これも官僚内のバランスを徹底的に明らかにしないという戦略をもって最終的に落ち着いたのだ。

このようにして、ディンク訴訟で麻痺してしまった政府と我々は直面している。なぜならこの訴訟では、罪ある国家主義者のコンセンサスが暗示されている。司法の決定はおそらく今このバランスを無理に壊すことができる。政府のチャンスはいま一つある。AKPの「倫理的バックボーン」が試される時である。

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( 翻訳者:奥 真裕 )
( 記事ID:25584 )