Fikret Bilaコラム:1997年「2月28日過程」とは何だったのか
2012年04月12日付 Milliyet 紙

チェヴィキ・ビル第二参謀総長を含む28名の退役軍人が逮捕されると同時に「2月28日過程」の司法過程は始まった。アンカラ特捜次席検事のヒュセイン・ギョリュシェン氏は、容疑者のうちの3人は国外にいるため、逮捕者数は28名になったと述べた。

ビル第二参謀総長と共に逮捕された他の退役将校を見るに、第一捜査が西方研究会と関係しているとわかる。逮捕された人たちの共通点は、西方研究会で任務にあたっていたということだ。

以前に開始され起訴に繋がった捜査同様に、2月28日捜査は更に広がりを見せながら続いていくのは想像に難くない。

■「2月28日過程」調査委員会

裁判所で引き続き行われている裁判・調査と並行して、トルコ大国民議会(TBMM)で民主主義への干渉と位置づけられる全ての企てを調査するために委員会が設けられ、こうした推移には議会の強い後ろ盾があることを示している。

与党野党の提案を組み合わせて作られた委員会の名前は、とても広範囲にわたる調査を行うということを示している。

「民主主義へ対抗する全てのクーデターと、書簡により民主主義を打ち壊すほかの全ての企てとその過程を全面的に調査する委員会」

4党の支援により、(軍部が関わる)(1960年)5月27日、(1971年)3月12日、(1980年)9月12日、(1997年)2月28日、(2007年)4月27日(の企て)について調査が行われる。委員会が4党の支援を受けて活動範囲を広げ設置されたことは、トルコで二度と民主主義が頓挫しないという件で政治的な合意と決意を表すものと読み取るべきだ。

■福祉党(RP)なしの組閣の模索

2月28日過程を理解するため1995年の選挙を振り返る必要がある。この選挙で福祉党(RP)は得票率21.38%で158議席、祖国党(ANAP)は 得票率19.65%で132議席、正道党(DYP)は得票率19.18%で135議席、民主左派党(DSP)は得票率14.64%で76議席、共和人民党 (CHP)は得票率10.70%で49議席を取った。上位3党の得票率と議席数は夫々非常に似通っていた。

そんな中、福祉党(RP)抜きの組閣の模索が生じたことは、エルバカンと距離をとることを表す最初の兆候だった。実際にDSPが閣外支援する祖国党-正道党の連立内閣 (ANAYOL)が成立したのもこうした態度の結果だ。しかし祖国党-正道党連立内閣がうまくいかないと、福祉党と祖国党と正道党の間で折衝が始まり、結果的には福祉党-正道党連立内閣が成立した。

■イランに対する懸念

「2月28日過程」がおきた基本的な要因の一つはトルコがイランのようなプロセスを踏むことに関する懸念があったといえる。この懸念はイスマイル・ハック・カラダユ参謀総長により選挙後の10月29日のレセプションで発言され、報道も行われた。福祉党-正道党連立内閣におけるネジメッティン・エルバカン首相の発言や振舞は全てこうした目で見られていた。

■2月28日の相違

「2月28日」というと、「過程」という言葉も付け加えられる。2月28日が9月12日(のクーデター)のように政府に直接手を下したのではなく、一定の過程の結果、政権交代を手にするという方法で進められたため、そう表現されるのである。この過程が既存の組織を用いて進められたことが、他の(軍部の)干渉とは異なる特徴である。2月28日の決定が国家安全保障会議で取られたり、政府がこの決定の後も3ヶ月半ほど続いたり、最終的に政権交代が正道党国会議員の辞職と共に議会で信任票数低下により実現したといったようなことである。

実際に当時のスレイマン・デミレル大統領が2月28日に関する批評で「憲政内で生じた事態」と答えた理由はこのためである。

しかし、捜査の開始と昨日の逮捕によって、検察が2月28日をこのように捉えていなかったことがわかった。検察は、1996-97年当時の政府転覆を企て、政府の活動を妨害しようとしたということを捜査理由にしており、この姿勢は2月28日をクーデターと捉えていることを示している。

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( 翻訳者:畔上曜子 )
( 記事ID:26058 )