Cuneyt Ozdemirコラム:スカーフを着用した首相は認められるか?
2012年04月22日付 Radikal 紙


スュメッイェ・エルドアン氏は、実政治の真ん中で、スカーフに関するすべての先入観を打ち砕いている。

近年、エルドアン首相の隣に透明人間がいる!ほぼすべての公式訪問に、何十人もの記者とともに参加していたにもかかわらず、いっこうにその姿が見えない。名前も言及されない。各国のリーダーたちとエルドアン首相が写った写真に彼女がいないと、私たちも彼女はそこにいないのだろうと考える。しかし、この状況を昨日ついに、ヒュッリイェト紙のコラミニスト・タハ・アクヨル氏が破った。彼は、エルドアン首相と共に行ったカタールへの飛行機の中にいた首相の末っ子、スュメッイェ・エルドアン氏の発言を引用した。私たちはアクヨル氏の記事から次のことを知ったのだ。この短い訪問の間に記者団と首相の間で行われた、例のトルコ語に関する議論にスュメッイェ・エルドアン氏も加わり、「アナトリアにおいてでさえ、「cafe」を「kafe」とは書かない」とぼやいた、というのだ。スュメッイェ・エルドアン氏が何を言ったのかは重要ではなく、重要なのは、一人のジャーナリストがついに、エルドアン首相の傍らにいるこの若い女性を見たことである。他の記者が見てみぬふりをしたのが、首相への敬意からか怖れからなのかはわからないが、スュメッイェ・エルドアン氏が、首相とすべての訪問に参加していることを、トルコでスカーフをした女性が実際の政治の中にいるという意味で、私は重視している。
スュメッイェ・エルドアン氏は、首相が強調して述べたているように、スカーフ着用のためトルコで学べず、「市民社会組織と社会発展」をテーマに研究し、アメリカで学士号を、イギリスで修士号を取得した人物だ。この間に巡礼も行っている。ある時期、兄と共にある会社設立したと報じられたが、その後のことは報じられていない。スュメッイェ氏は私たちが知る限りでは、芸術にも関心を持っている。少し前、ギュヘルスュヘル・ペキネル氏が、出演したテレビ番組で、スュメッイェ・エルドアン氏がバイオリンを弾き、声楽のレッスンを受けていると話すと、同じ番組でゲスト出演していた(ジャーナリストの)親愛なるメフメト・アリ・ビランド氏は驚きを隠せなかった。「なんだって?ああ、全然知らなかった。彼女のイメージは私の中で突然変わってしまった。私たちの思っていた彼女のイメージは、保守的で、そんなことには全く関わらない、女性らしい人というような・・・。」まさにビランド氏のこの言葉ゆえに、スュメッイェ・エルドアン氏が見えるようになったこと、そして一部の人の頭にある、「スカーフをした娘は女性らしい人に育ち、そのように芸術には関わらない」という決まり文句を壊すという意味での重要性である、それをあえて説明する必要はあるだろうか?もうひとつ加えるとすると、スュメッイェ・エルドアン氏がいい批評眼をもった演劇の観客であることも、私は、スカーフ論争のなかでで知った。

スュメッイェ・エルドアン氏は、首相の外交相談員として、トルコのエリートたちの固定観念を壊している。実際の政治の真ん中で、スカーフに関するすべての先入観を打ち砕いている。今日まで、男性政治家の妻がスカーフをすることにさえ我慢できなかった、「公の分野」の番人たちに対し、また、この国のスカーフをした人たちに対し、さらにこの国を住みにくいものにしている考え方に対しても、この努力で答えている。

一部の家族は政治を、一つの生活様式、または一つの運命のようにとらえて暮らしているアメリカではケネディー家、ブッシュ家、またはクリントン家、パキスタンではブットー家、インドではガンジー家、トルコではメンデレス家、オザル家。ある者の二番目の世代、または三番目の世代さえ、実際の政治の中の象徴となりうる。私たちが見る限り、エルドアン首相の4人の子供の中で、政治に一番才能があるのはスュメッイェ・エルドアン氏だ。いつの日か、実際の政治の中で、彼女が全く違った場所や地位にいることになったとしても、驚かないようにしよう。

スュメッイェと言えば、もう一人の他のスュメッイェの成功に気づかれただろうか?偶然にも、その人もスカーフをしている。オスマニイェ県出身のスュメッイェ・ヌル・サティン氏は今年、高等教育資格試験の成績トップ二人のうちの一人になることに成功した。これは歴史の面白い偶然といえるだろう、この国でスカーフをした人に学ぶ権利を認めなかった「2月28日過程」の当事者らが罪に問われてようとしている昨今、スカーフをした高校生が、トルコで最も重要な試験で一位を分け合っているのだ。四位もスカーフをした生徒だ。もちろん私は知っているのだが、私が「スカーフ」というたびに、特に私がいる環境の中でははこれがだれかにひどい嫌悪感を与えてる。自分たちの中にこの嫌悪感を消化することができず、私の腹部を殴ろうとする人もいる。しかし私たちはスカーフ問題を、この人たちの安っぽい反応を気にせずに、まさにこのようにして書き、話し、正常化させていこうではないか。そうすれば、「トルコである日、スカーフをした女性は首相になれるだろうか」と言う質問をする必要はなくなるだろう。

一部の問題を議論するとき、私たちはイデオロギーのメガネをはずすことができない。例えば、「国会議員の盗聴問題は重要だ」と私たちが書くと、頭に浮かぶ最初の質問は、「どの政党の議員?」とくる。何の関係あるのか!問題は、原則の問題だ。もしくは似た状態が、医者に暴力を振るったことで問題になったある国会議員についてもいえる。ある国会議員が、医者を(どのような理由であれ)殴ろうとしたとき、質問せずにはいられなくなる。「どの政党の議員だ?」と。しかし本当は、これら二つの例で、この種の事件に関わる人たちにまず、彼ら自身の政党が反対し、彼らを罰しなければならないはずなのだ。ある国会議員を盗聴させる与党が、その盗聴を命じた人を見て見ぬふりをするなら、これは彼の行動をかばうということだ。ある野党の国会議員が医者を殴ったことを、党内のバランスのために見逃すなら、その時は、政党全体が医者に暴力を振るったことになる。公正発展党か、平和民主党かは、こう考えれば、関係ない。

皆様が愛する人たちと良い日曜日を過ごされることを願います。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:26152 )