Fikret Bila コラム:アタテュルク、サムソン上陸の日、5.19の精神
2012年05月20日付 Milliyet 紙

ムスタファ・ケマル・アタテュルクがサムスンに上陸した1919年5月19日。この日は、トルコ国民だけでなく、すべての抑圧された国々にとって国家の自由と独立の道への第一歩が刻まれた歴史的な日である。
1919年5月19日は、トルコ国民にとって救国と独立の精神を象徴するものである。アナトリアの人々はこの精神で以って、アタテュルクのリーダーシップの下、独立戦争を戦い、国民としての自覚をもちつつトルコ共和国の基礎を築いていった。このことから、完全な独立を象徴する5月19日は、国民の祝日として祝われるに相応しい日である。

■ファシストの祝日ではない

5月19日、若者とスポーツの日の祝祭方法が今年変更された。この変更が主張された理由の一つが、5月19日は画一的な人間を作り出すことを目的とし、ドイツのヒトラー政権やイタリアのムッソリーニ政権のファシストの祝日から来るものだという見解だった。
5月19日について、トルコの若者がまるでファシズム体制下のドイツやイタリアのように 「独裁者」に忠誠を示す祝日であると主張されたのだ。しかし、これは全くのでたらめである。


■アタテュルクが5月19日の祭典を目にすることはなかった

まず確認しなければならないのが、ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、サムスンに上陸した5月19日の祭典を目にしたことは一度もなかったということだ。
5月19日が国民の祝日とされたのは、1938年6月20日のことであり、その時すでにアタテュルクは病床に伏していた。このため、アタテュルク自身は5月19日の祝日をその目で見ることはなかったのである。
自身の名を掲げた祝日を設けるなど要求したことのないアタテュルクが、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニにならって、「独裁者」に関連する祝日を作ったなどということはまったくナンセンスである。

■若者の祝日は昔にも存在していた

まさに新生共和国時代の教師で教育歴史研究家でもあるネジュデト・サカオール氏がテレビ番組で説明したように、若者の日はオスマン帝国時代にも存在した。初めて祝われたのは、1916年の青年体操発表会においてである。当時、この発表会を開催できる機能があった機関はイスタンブルの師範学校だけであり、1916年以降このお祝いは毎年続けられた。
男女の生徒が一緒に行うこの体操発表会の目的は、若者の健康な体と身体能力を披露することだった。この祝日が、1938年にアタテュルクが救国の第一歩を踏み出した日に結び付けられて、共和国の若者にとってさらに大きな意味を持つ日となった。

■国民の参加

5月19日は本当の意味での「国民の祝日」たりえていないという主張は真っ赤な嘘である。
サカオール氏が述べている通り、5月19日は4月23日(国民主権とこどもの日)のように国民が最も祝う祝日である。スタジアムや学校で催される祝典に父母たちは大きな喜びと幸せな気持ちで参加をし、発表で子供たちの姿を見たあと、子供たちと祝日を喜び合うのである。

■サムスンの土と旗

5月19日のトルコ共和国の建国にちなむに相応しいスポーツ活動は、サムスンの土とトルコ国旗を、若いアスリート達がリレーし、現職の大統領に手渡すことである。今年はこの伝統が取りやめられた。しかし、この素晴らしい、意味のある旗のリレーが、トルコの若者と国民を不快にさせるものであるとは考えられない。

■分裂の日になってはならない

軍事パレードはもはや時代遅れであり、5月19日も軍事色を少なくして祝われるべきだとは言え、 (この日が)国家が遠くから冷淡に見ているだけの日になってしまってはいけない。
5月19日は、アナトリアの民衆が、抑圧からの解放と国の一体性、そして独立を求める救国戦争を始めた日である。
このため、この日は一体となって国民的に祝われるべきである。
しかし昨日のお祝いを見ると、この日が分裂の日になっていっていることを深刻に示唆している。
5月19日は、あらゆる政党、あらゆる青年組織、すべての自治体、すべての県が、各々の政治的見解に基づき異なる形で祝う日になってはならないのだ。

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( 翻訳者:松永拓人 )
( 記事ID:26442 )