Yurat Yetkin コラム:トルコ・イスラエル・シリア―政治的緊張の軽減期待できず
2012年05月31日付 Radikal 紙

我々が行き着いたのはここである。昨日トルコは、欧米の同盟諸国に倣い、駐シリアの外交団を全員召還した。

今日は、マーヴィ・マルマラ号の悲劇からちょうど 2年目にあたる。イスラエル軍によるガザ封鎖を打破するために出航したマーヴィ・マルマラ号をイスラエルが攻撃し、9人のトルコ人を殺害してから、2年が経った。

政府が人権・自由・人道支援財団(İHH)から借用したマーヴィ・マルマラ号が周囲からの警告を無視して航行を続ければ、イスラエル軍の襲撃を受けると予想できていたにもかかわらず、航行をなぜ許可したのかといった問いは、いまだ明らかにされていない。周知の事実は、独立戦争以来初めて、9人の民間トルコ人が、他の軍の兵士により殺害されたこと、そして、謝罪がおこなわれていないことである。トルコ側の謝罪要求は当然のことであり、ここから議論を始めよう。

マーヴィ・マルマラ号への襲撃からたった数時間後に、PKKの兵士たちは、イスケンデルンの海軍基地を襲撃し、6名の兵士は殉職した。関係筋は、(PKKの)兵士たちが、シリアから流入してきたと話していた。

イスラエルとの関係がどん底だったその時期に、シリアとの関係は、頂点に達するところだった。タイイプ・エルドアン首相とバッシャール・アサド大統領は、互いに「兄弟のようだ」と呼び合っており、シリア領内でトルコに対するテロ活動は許可しないと述べていた。

もちろん、この言葉は無意味ではなかった。父ハーフィズ・アサドの時代、1980〜90年代にシリアは、PKKとその創設者兼指導者であるアブドゥッラー・オジャランを自国に受け入れた。この状況は、当時のスレイマン・デミレル大統領が、1998年10月1日にシリアに明確に警告するまで続き、警告の6日後、シリアはオジャランを国外追放し、オジャランが1999年2月15日に駐ケニアのギリシャ大使館を出て空港へ向かう途中に米国諜報機関である CIAとトルコ諜報機関(MIT)の共同作戦により逮捕されるまでの逃亡が始まった。

■二度目の春

シリアとの関係がどん底を彷徨っていた90年代、トルコ・イスラエル関係は二度目の春を迎えていた。70年代から80年代にかけて悪化した両国の関係は、 外交、政治、貿易、軍事分野で引き上げられ、地中海東部にある比較的民主主義が機能していた両国の蜜月は、共通の同盟国である米国を非常に満足させるものであった。この関係は、2002 年に公正発展党(AKP)が政権を取った後、より強化されながら継続された。トルコは、シリアとイスラエルの間で、包括的な中東パレスチナ和平の仲介を始めた。

すべては、2008年に当時のエフード・オルメルト首相が、エルドアン首相とシリア和平について会談するためにアンカラを訪問した直後に、イスラエル軍が ガザで民間人を殺害する作戦を実行したことで破綻した。その後2009年1月のダボス会議でシモン・ペレス大統領との「one minute」事件が起こった。そして2010年のマーヴィ・マルマラ号事件…。

シリアとの関係における二度目の春はというと、アラブの春の暗礁に乗り上げた、と言えよう。アサド大統領が父の無慈悲さを受け継ぎ、チュニジア、リビア及びエジ プトの指導者たちのような結末になることを避けるため、自由を求める国民を攻撃することにより、トルコが「善隣」外交を続けることはいずれにせよ困難になった。

そして我々が行き着いたのはここである。昨日トルコは、欧米の同盟諸国に倣って、駐シリアの外交団を全員召還した。イスラエル外務省は、トルコの裁判所が、参謀総長を含むイスラエル兵士たちに対し逮捕の決定を下したことを受け、国民にトルコへ渡航しないよう呼びかけた。トルコ・イスラエル関係は、数ヶ月前に二 等書記官レベルにまで落としていた。今日、マーヴィ・マルマラ号の悲劇から2年目を迎え、人権・自由・人道支援財団(İHH)の主導で、イスタンブルで大規模な集会を行っている。

残念ながら、イランやイラクの情勢を考慮せずとも、周辺地域の政治的な緊張の軽減は期待できないようである。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:田辺朋子 )
( 記事ID:26572 )