Mustafa Armagan コラム:億万長者アタテュルクの財産
2012年06月11日付 Zaman 紙


あなたは、アタテュルクがかつてホテル、遊園地、炭酸水製造所、ワイン工場、皮革工場、2つのパン屋、4軒のレストラン、そして443頭の畜牛、13,100頭の羊、さらに2,450羽の鶏を所有していたことをご存知ですか?

アタテュルクの財産の存在については、それが贈与された1937年から知られていたが、1968年に至るまで議論されることはなかった。フェトヒ・ナジが、1968年に著した『100の問題におけるアタテュルクの基本的見解』と題した本で、この問題が取り上げられた。ドアン・アヴジュオールは、『トルコの秩序』という本の中で、簡単にふれただけだった。その後、ついに、アタテュルクの財産についての情報を世に知らしめることになった作品が、1970年2月に本屋のショーウインドウに並んだ。それがイスマイル・ジェム著、『トルコにおける後進性の歴史』である。

左派運動が激しかったこれらの年には、アタテュルクさえも激しい「清算」の波に飲み込まれていた。つまり、その時期に左派は、まだケマリズムと結びついてはいなかったのだ。彼らは、アタテュルクの諸改革を「左派改革」の一つの段階として捉え、乗り越えなければならないと主張していた。もちろん、共和国の初期に、左派が国家の手によって潰されたことも、一種の不可抗力のように評価していた。

私は、アタテュルクが1937年6月11日に国庫に入れ、彼自身によってひき出された財産の一覧表の原本を首相府アーカイブズで閲覧した。そして、それを、完全な形でここに載せる。しかし、その前に、トルコで、アタテュルクがどれほど真剣に取り上げられているのかに関するいくつかの文章を示したいとと思う。

フェトヒ・ナジは、いくつかの間違いを含みながらも、このリストを『演説と声明』の第4巻から引用している。イスマイル・ジェムは、リストをナジから引用しているが、オリジナル(ナジの引用)を間違って解釈し、ナジがこの情報をマズハル・レヴェントオールの『アタテュルクの遺言』から引用したと書いている。そういう間もなく、ジェムの本が今度は他の本により引用されている!そして、同じような間違いは続いている。誰もが、直接行って、首相府のアーカイブズにある原本を見るという手間をとらないために、リストに嘘と間違いが載ったままになっている。

今まで、以下に挙げたリストの原本を示し、議論に終止符を打とうとした人がいなかったというのは、何と残念なことだろうか。下に掲載したリストは、首相府の共和国アーカイブズにあるオリジナルの文書からとったもので、例えば、以前の出版物では「鉄工所(çelik fabrikası)」となっていたものは、実際は「精米工場(çeltik fabrikası)」であった、といったような大きな間違いを訂正している。

アタテュルクが誰かに用意させ、自らがサインをしたリストによれば、アタテュルクは、アンカラの、オルマン、ヤームルババ、バルガト、マジュン、ギュヴェルジンリック、タハル、エティメスグト、そしてチャクルラル農場からなるオルマン農場と、ヤロヴァのミッレトとバルタジュ、スィリフケのテキルとショヴァルイェ農場、そして、ハタイ・ドルトヨルのオレンジ果樹園とカラバサマク農場、更に、タルススのピルオール農場の所有者だった。

アタテュルクは、国庫に寄贈した財産を6種に分類している。第1の分類は土地である。これによれば、合計154,729ドニュム(1ドニュム=920㎡)の土地を所持していたことがわかる。詳細は以下の通りである。

A) 582ドニュムの果樹園
B) 700ドニュムの苗床(650,000本の苗木)
C) 400ドニュムのアメリカの葡萄の苗床(560,000本の葡萄の若木)
D) 220ドニュムの葡萄園(88,000本のブドウの木)
E) 375ドニュムの野菜畑(フェトヒ・ナジの本では370とあった。)
F) 220ドニュムのオリーブ園(6,600本の木)
G) 1,654本の木から成る17ドニュムのオレンジの果樹園(フェトヒ・ナジでは27ドニュム)
H) 15ドニュムのアスパラ農園、100ドニュムの公園と庭園、そして2,650ドニュムの牧草地とルーサン牧草地
I) 1,450ドニュムの森林、148,000ドニュムの農業に適した土地と草地

次に、建物と施設の項目がくる。ここでは、アタテュルクは、51棟のビルの所有者であると書いてある。

A) 45棟の政府関連建物と官舎
B) 7つの、15,000頭の羊を収容できる畜舎
C) アイドスとトロスのヤイラ(夏季に使用する山の牧草地)に造られた6つの乳製品製造所と8つの馬牛小屋
D) 7つの穀物倉庫、4つの干し草置き場と草置き場、6つの納屋と小屋
E) 4軒のレストラン、ナイトクラブと遊技場、遊園地、2軒のパン屋、2つの温室

3番目の項目は工場と製造所である。文書からは、アタテュルクが、ビール、モルト、氷、炭酸飲料と炭酸水、皮革、農業用品、そして鉄工場を1棟ずつ、また、1つはアンカラに、そしてもう一つはヤロヴァに、合計2棟の牛乳製造所を持っていたことがわかる。加えて、またアンカラとヤロヴァに一棟ずつ広大なヨーグルト製造所、年間80トンのワインを製造することができるワイン醸造所、電気製粉所、さらにイスタンブルの精米工場では40%の資本をもち、さらにはそれぞれ15トンのカシャル(チーズの一種)、1,000缶の白チーズ、600缶の油を作るのに適した2つの工場が稼働していたそうだ。「一般施設」と題されたところには、以下の情報が書かれている。

A) アンカラとヤロヴァの2つの養鶏場
B) ヤロヴァの農地にある2つのプライベートな船着き場と港湾施設
C) 3つはアンカラに、2つのイスタンブルにある、合計5つの店舗
D) オルマン農場の下水施設、灌漑施設、電話と電気設備、小さなコンクリート製の橋、私道、飲料水配水システム、そして、ヤロヴァとテキル農場にも同じような施設が。
E) オルマン農場の農場博物館と小さな円形の動物園施設

リストの最も興味深い部分は、生きた動物たちである。これによれば、アタテュルクは、

A) クヴルジュック種(巻き毛の羊)、メリノ種、カラクル種(中央アジアの硬く粗い毛の羊)、カラマン種(尾の太い羊)からなる13.100頭の羊
B) シンメンタール種、オランダ種、クレミア原産種、ジャージ種、ギョレンセイ種、アレッポ原産種の交配によって新たに作られたオルマン種とテキル種からなる443頭の畜牛
C) イギリス、アラブ、ハンガリー、そして土着の種からなる69頭の競走馬と乗馬用の馬、58頭の羊飼い用のロバ
D) レグホン種、ロードアイランドレッド種そして土着の品種からなる2,450羽の鶏

…を所持していたという。

リストはまだ終わっていない。最後には、動産の項目が…

アタテュルクが所持していた動産として、16台のトラクター、13台の脱穀機とコンバイン、そして、当時の値段にして66,000リラの価値のある(この数字は、最初書かれ、後で黒く塗りつぶされた)農業用具と設備、35トンのモーターボート(ヤロヴァ農場)、5台のトラックとヴァン、2台の乗用車、そして、19台の農場内で使われていた乗用車と貨物車が書かれていた。

まとめると、アタテュルクは、154,729ドニュムの土地、文書では51と書かれているが、私の計算によれば91棟のビル、6つの工場、5つの製造所、1つの製粉所、そして1つの精米工場の共同経営権、2つの養鶏場、2つのプライベート港、5つの店舗、様々な灌漑施設などなど、橋、博物館と動物園、何千頭もの羊、牛、馬、鶏、トラクター、モーターボート、トラック、ヴァン、乗用車、そして農業用車両を所持していたことがわかる。

私は、「君は何を言っているのだ?」という人たちに対して、あなたがたが世俗的でケマリストであることを疑わないイスマイル・ジェムの本を読んでみなさい、と言おう。イスマイル・ジェムが、ムスタファ・ケマルが1923年にバルケスィルで口にした以下の言葉を削除したことは、どのような意味があるのか、よく考えてみなさい。

『我々の中に大富豪は何人いるだろうか?全くいない。このために、多少なりとも金がある人々を我々は攻撃したりはしない。それどころか、我々の国に多くの大富豪を、さらには億万長者を育てるために頑張ろうではないか。』

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:能勢美紀 )
( 記事ID:26677 )