Derya Sazakコラム:エルゲネコン裁判の行方
2012年07月22日付 Milliyet 紙

ノクタ誌にてオズデン・オルネキ元海軍司令官のものであると主張された「日記」を報じた雑誌の元編集長であるアルペル・ギョルムシュ氏が、エルゲネコン裁判に証人として出廷した。
アルペル・ギョルムシュ元編集長が語った内容の中では、イスタンブル県第13重罪裁判所長官の発言も衝撃的であった。
タラフ紙が報じたニュースによれば、ヒュスニュ・チャルムク裁判所長官は、当時の軍警察総司令官シェネル・エルイグル氏から入手した資料の中の「オズデン・オルネキ関係」という見出しの文書をアルペル・ギョルムシュ元編集長に見せたのだという。ギョルムシュ元編集長は、この文書に記述されていた日記と彼自身が雑誌で報じた「クーデターの日記」は同一のものであると述べた。チャルムク裁判所長官はこの資料にはパスワードがかけられており、長い間解読できなかったと述べ、しばらく後にそのパスワードが「猫kedi」であることが判明したと話した。
裁判所の方向性という観点から、この資料は重要だ。
アルペル・ギョルムシュ元編集長も、この日記に書かれている2003年12月3日の会議の重要性を語っている:
「その会議ではオズキョク元参謀総長が『何をするか』と発言し、みなから意見を集めている。全員が軍事介入という方向で意見を述べている。しかしヒルミ・オズキョク元参謀総長は、『われわれは政府を民主主義の道から警告し続ける』と発言している。もし2003年12月3日に行なわれたこの会議にて、ヒルミ・オズキョク元参謀総長までも軍事介入という考えを持っていたならば、クーデターは実現しただろう。」
2003年から2004年における「クーデター計画」では、ヒルミ・オズキョク元参謀総長の姿勢は疑う余地なく「抑止力」となっていた。
真実はこういうことだ。オズキョク元参謀総長はクーデターを望んでいたとしても、クーデターは起きなかった。
いや、起き得なかったのだ!
なぜなら「クーデター計画」の放棄には、国内の政治的要因だけでなく国外の諸状況も役割を果たしていたからだ。
公正発展党(AKP)は、単独与党であった。
2月28日の「ポストモダン」クーデター過程におけるように、政府は連立政権ゆえの解体が可能な状況ではなかった。
また直接軍事介入する条件もなかった。
オズキョク元参謀総長が司令官たちの「クーデター」の意見を議論した2003年12月3日は、アメリカ合衆国がイラク占領を「北部前線」よりトルコ上空から実行する計画が、トルコ大国民議会側から阻止された日の6ヶ月後である。当時の軍幹部らは、3月1日の公式証書の棄却によって信頼を失っていた。AKP政権もまた、ホワイトハウス側と亀裂ができたが、アメリカ国防総省の反発の矛先を参謀司令本部に向けた。
9月12日にそうなったように、表面化したクーデターに対するアメリカの支援が議題にのぼった。
「かばん事件」の公式証書の再来である。
この見返りとして、西欧におけるトルコのイメージは変わった。「アメリカのトロイの馬」として見られる国となり、EUと正式加盟国となるための交渉が始められた。
グローバル化の風が経済にプラスに反映したことにより、クーデターの条件は完全に無くなった。
イスタンブル第1軍隊における「バルヨズ計画」が実行不可能な状態に至ったことも、同じ時期にあたる。
「猫」というパスワードによって解読された資料が、ノクタ誌がオズデン・オルネキ元海軍司令官と関係していると主張した「クーデター日記」と同一のものであるということは、裁判の行く末に一考を与えるものである。

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:27099 )