Cengiz Candar コラム:シリア・クルド情勢に「予期せぬ展開」
2012年07月25日付 Radikal 紙

クルド問題に少しでも関心を持っている者なら誰でも、シリアのクルド人の最も重要な層がPKK(クルディスタン労働者党、非合法組織)に傾いていることは知っているだろう。

シリア・クルド人への不安感がトルコ社会を覆った。実際、昨日のラディカル紙の見出しは「予期せぬ展開」であった。さらに「シリアの西クルディスタンの動きがトルコに行動を起こさせた」という見出しがあった。
昨日の新聞では多くのコラムが同問題について取り上げていた。ラディカル紙の見出しを飾ったデニズ・エイレキ氏の署名入り分析では、次のような文章が特に注意を引いた。
「トルコは、シリアのクルド人がアサドから離れて行くことに満足していた。しかしシリアのクルド人はPKKが支持している政治グループの周りに集まっている。トルコ側はこの状況を『予期せぬ展開』として見ており、これがさらに進展し、トルコにとって深刻な問題とならないよう措置を取り始めた。バルザーニーにこのグループにたいし影響力を持ってもらうというのが最初の選択肢だ。もう一つの選択肢はというと、トルコがシリアのクルド区域にいるグループのリーダーと接触することだ。ある政府高官は、同地域でPKKコントロール下でのクルド支配体制ができるのを容赦することはないが、北イラクのような支配体制が実現した場合には、接触を増やすと明言した」
これは何と「支配者的考え」、「国家(中心主義)的考え」であろうか?「シリアのクルド人は、PKKが支持している政治グループの周りに集まった。そしてトルコ側はこれを『予期せぬ展開』として見ているという…」

なぜ「予期せぬ展開」なのだろうか?その「トルコ側」とはいかなる惑星にあるというのか?クルド問題に少しでも関心を持っている者なら誰でも、シリアのクルド人の最も重要な層がPKKに傾いており、そのためPKKのシリア支部ともいえるPYD(民主統一党)が他のクルド組織全部と比べても、シリアのクルド人の間で最も優勢となっていることを知っている。
シリアで中央政権が崩壊または解体した場合、2011年3月に勃発したシリアでの反乱においてはまとまってはっきりとした形で参加しなかったクルド人が、(今度は)行動を起こし、自分たちの地域で政権を取るということは、非常に容易に予想することができた。

大体、マスード・バルザーニーの企てによって7月12日にPYDとKUK(クルド国民評議会)の間で合意がなされたこと、両方からの5名ずつの代表者による「クルド高等評議会」設立の決定がなされたことは、マスード・バルザーニーがそしてシリアのクルド人が、バッシャール・アサド体制にひびが入りだしたことを感じとったことと関係していた。それから6日が過ぎた後、ダマスカスでシリア政府最高幹部を一掃しようとした暗殺によって「中央」は揺るぎ、クルド地域は「クルド高等評議会」の支配下に入り始めた。

これの何が、どこが「予期せぬ展開」なのか?
トルコが自国の「クルド問題」と「シリアのクルド問題」の両方を、マスード・バルザーニーを通して解決しようと考える、といったような「不可能なこと」を追い続けていることは、過去に何度も話してきた。約1年の間続けられてきた「安全な」クルド政策をみると、頭を石にぶつけても頭の基礎的な構造に未だ変化が起きていないということがわかる。
マスード・バルザーニーはトルコが望んでいること、期待していることを実行することはできない。
なぜなら、
1. マスード・バルザーニーは、トルコの「番人」ではない。
2. 望んだとしても、トルコの「対クルド政策」に勝るほど、強くはない。
3. シリアのクルド人が、自分たちの先にあるイラクのクルディスタン自治体制またはイラク連邦主義を前例とするなら、「一国の」クルド人リーダーであるマスード・バルザーニーは彼らに何と言うのだろうか?「シリアでは我々がイラクで獲得した権利よりも少ない権利で納得しなさい」とでも言うのだろうか?そんなことを言わせられるとでもいうのか。大体そのようなことを言ってはいないし、PKKと暗黙の合意をするという条件で、シリアのクルド人への影響力を持ち続けよう、または守ろうと考えているのだ。
トルコは一時期、バルザーニーが「イラク連邦」の考えから「クルド自治区」そして独立の可能性を口にしたため、おそれをなした。その時期マスード・バルザーニーは「ブーツを舐める(おべっか使いの)部族長」であった。または、「ペシュメルガ(クルド人戦士)のリーダー」であった。ペシュメルガという言葉は中傷的な意味合いを強めるために用いられたものだ。マスード・バルザーニーが捕まりイムラル(訳者註:PKKのオジャランが収監されている)に連れてこられることを提案する程、理性を失った現実主義的な新聞編集者がいたのだ。それほど前のことではない、数年前のことだ…

どこからどこへ向かってしまったのか。生活の現実、歴史のダイナミズムが強くなると、全く我々が予期しなかった方向へ向かおうとし、現実との埋め合わせを強いられるのだ。「イラク連邦」は良くてなぜ「シリア連邦」はいけないのか?シリアのクルド人をなぜイラクのクルド人よりも下の「地位」で満足させようとするのか?これが「道理にかなっている」とする理由とは何だろうか?
過去の記録をチェックすると、トルコメディアで最初にそして最も多くシリア関連の記事を書いてきたのが自分であることが分かった。シリアでの事件は2011年3月中旬に始まった。私の最初のコラムは2011年3月27日の「中東の自由の夜明けにおけるトルコとシリア」というタイトルの下発表された。あの日から今日まで、つまり16ヶ月間直接シリアを題材にした52の記事を書いてきた。今日「国家」を、そしてそのためメディアをも「警戒」させた展開にとうの昔に、私は注意を向けていた。
例えば、今年の2月29日付の記事では、「トルコは別のジレンマを抱えている。なぜなら(シリア)体制の避けられない崩壊が先延ばしされるということは、一時たりとも『シリア国家』として統一されなかった国で、流血を伴う闘いの結果、その解体がもたらされることになるだろうし、または少なくともイラクでの2003年以降の体制構造(連邦制)が、つまりシリアで『シリア連邦』として現れることで、『形としての統一』が守られるかどうかが問題となろう。バッシャール・アサドの体制が崩壊した後、シリアのクルド人は今日まで所有してきた『地位』または別の言い方をすれば『地位の無い』状態のままでいられるだろうか?」という文章で、私は今日の「根本的な問題」を指摘していた。
トルコのシリア・クルド人に関する根本的な問題は、PYD、つまりPKKがシリアのクルド人の中でどのような位置づけにありどのような力を持っているかということだ。これまでずいぶんと「PKKがバッシャール側についている」というプロパガンダが行われ、「PKKは歴史の流れに反した側に立っている、バッシャールと共に崩壊してしまうだろう」と強調された。
どんな理由であれ、新聞、テレビ等のメディアでのこうした「主張」に対し、「騙されないように、PKKとシリアのクルド人は、バッシャールに対し未だ反乱を起こしていない。これはPKKがバッシャールの味方である、または請負人であるという意味にはならない。バッシャールが崩壊し始めれば、PKK(PYD)は後ろを振り返ることなくシリア・クルド人という名のもとに行動を起こす。PKKとバース党体制の間には『カトリックの婚儀(訳者註:永遠に添い遂げること)』はない」との見解を私は示した。
つまり「国」が自分たちそして社会を裏切ったと考えるようになる。PKKを正しく理解できないなら、正しい結果に到達することもできない。
ある「トルコ政府高官」は同地域にPKKのコントロール下にあるクルド自治政府ができるのを容赦しないということを、しかし北イラクのような支配体制が実現した場合には(つまりPKKなしの、マスード・バルザーニーに賛同するクルド人が連邦体制をつくったなら)接触を増やすと明言した。
そうであれば、もしその2つとも実現しなければ、3つ目の形、つまり今日のようにバルザーニーとPKKとの暗黙の合意に基づいたシリア・クルド政権のモデルが実現するなら、どうするだろうか?
問いたいのはこれである。
さらに多くの疑問がある。今後問いかけ議論するつもりである。

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( 翻訳者:釘田遼香 )
( 記事ID:27130 )