スレイマニイェ・モスク、ラマザン月でもこの人数
2012年07月29日付 Zaman 紙


スレイマン1世の命により建築家スィナンが建設したスレイマニイェ・モスクの現状は痛ましい。ラマザン月でさえ(祈りの列は)5-6列しか埋まっていない。モスクの収容人数は1万4千人であるにもかかわらずだ。イマームのmiアイハン・マンスズ氏は、「スレイマン1世や建築家スィナンは私たちにため息をつくだろう」と話している。

スレイマニイェ・モスクは、壮麗者スレイマンの、壮麗でキュッリイェのあるモスクである。建築家スィナンの祈りで扉を開き、オスマン帝国のウラマー、宰相、官僚たちが(祈りの)列を埋めた文明の神聖な場所に建つモスクだ。何世紀経っても、いまだにイスタンブルのシルエットの主役である。建設に携わった3千人の労働者が、全て清められた石を使って建てたこのモスクは、11の月の王であるラマザン月でさえもガラガラになる日が来ることを知っていただろうか。
このモスクのイマームであるアイハン・マンスズ氏が言ったように、スィナンやスレイマンは今私たちにため息をついているだろうか?スレイマニイェ・モスク の孤立は誰のせいなのか。スルタンアフメト・モスクやエユプ・モスクが満員である一方、スレイマニイェ・モスクはなぜガラガラなのか。ヤフヤ・ケマル・ベヤトゥルが、「スレイマニイェでの祭りの朝」という詩で述べている混雑ぶりはどこへ行ったのか。なぜ、「空に開かれたこの天国への扉」に来なくなったのか。わからない。
この神聖な月にスルタンアフメト地区をラマザンの特別礼拝でにぎやかにし、エユプ・モスクの庭で朝まで平伏し、神に祈る多くの人々を見ると、スレイマニイェ・モスクの孤立に気づいた。このモスクの2人のイマーム、4人のムアッズィンは絶え間なく働いているが、(お祈りにくる)人々の声は本当にわずかだ。ごく少数がラマザンの特別礼拝の伝統を続けているモスクで、(祈りの列は)6-7列しか埋まっていない。その上、朝の礼拝の状況はさらに悲惨である!2列しか埋まっていない。建築家スィナンは、1万4千人 が同時に礼拝できる大きさのモスクを建てたにもかかわらずだ。内側の部分に8千人、外にある中庭に6千人が収容できる。
16世紀にイスタンブルの人口は50万人だったのにもかかわらず満員だったモスクの現状について、イマームのアイハン・マンスズ氏、文学者のベシル・アイヴァズオール氏、ミーマール・スィナン大学の副学長、スプヒ・サアトチ教授と話した。

■駐車場とアクセスの問題がある

イマームのマンスズ氏は、モスクの閑散を一番よく知っている。彼は人々や自治体を少々非難している。「朝の礼拝でエユプ・モスクに行く人たちは少し、スレイマニイェに来ることや、ここをにぎやかにすることを考える必要がある。ここは、神の仲間が来て、礼拝した場所だ」と話す。その後に、「しかし彼らも正しい。スレイマニイェ・モスクには駐車場とアクセスの問題がある。公共交通機関からとても遠い。車を止める駐車場もない。」
モスクに近く、広く使われている公共交通機関の場所は、トラムのベヤズィト駅である。モスクから徒歩15分ほどの距離にある。ラマザン以外の夜に歩こうとすると、非常に人通りが少なくなることから、少し危険な道である。つまりモスクは、自家用車でより楽にアクセスできる地域にある。しかしモスクの周辺に駐車する車はすぐに撤去される。駐車場に止めると最低でも5リラ払わなければならない。この問題は、他のモスクがスレイマニイェ・モスクより好まれる根本的な理由である。
他の理由としては、かつてのスレイマニイェの面影が残っていないことである。実際、キュッリイェのマドラサにおける教育は現在イスタンブル大学によって行われている。病院は、スレイマニイェ・ドウムエヴィ病院、食堂は、観光客向けの高級レストラン、シェイヒュルイスラーム庁は、イスタンブル・ムフティー局となっている。一見すると昔と同じことを続けている。しかしモスクを、立法者スレイマンの命で建築家スィナンが建設した時代(1551-1558)には、ウラマーや選ばれた人々が住んでいたこのスレイマニイェがあった。しかし現在は、行商人と移民が住む地域になってしまった。オスマン帝国の要人の邸宅はアパートになった。その上これらのアパートには一部屋に5、6人の労働者がいる。歴史的建造物とされているため改修できず、日に日にボロボロになっている。そのためスレイマニイェには近くからも遠くからも人が来ない。

■スレイマニイェ・モスクの孤立はいつ始まった?

20世紀の初めに、徐々にその重要性を失ったスレイマニイェ・モスクへの決定的な打撃は、スプヒ・サアトチ教授によると、1935年から38年の間に行わ れたアタテュルク通りの建設だという。サアトチ教授は、「歴史的な半島をベイオールとつなげたアタテュルク通りは、スレイマニイェ地区とファーティフ地区を切り離してしまった。ファーティフ地区は住むのにより魅力的であるために、スレイマニイェ地区の人々はゼイレキに引っ越し、徐々に衰退が始まった。それ 以降スレイマニイェ地区は人口が過疎化し、現在のようになった」と話す。ファーティフ地区は、2006年に計画された改修計画にようやく取り掛かった。計画によると、スレイマニイェ地区では319の登録された歴史的建造物、26の記念建造物を含めた732の建物に改修工事が行われる。改修工事は2年間続く予定となっている。私たちは、街の変化が利益をもたらすことと、スレイマニイェがかつての様子を取り戻すことを願っている。

<後略>

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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:27193 )