金メダリスト、アスル・チュカル・アルプテキンを私たちは忘れていた―出場停止からの復活劇
2012年08月10日付 Milliyet 紙


アスル・チャクル・アルプテキンは今晩オリンピック陸上競技女子1500メートル決勝に出場し、4分10秒23のタイムで優勝した。

いやはや、我々はアスルを忘れてしまっていた。本当に。ページ全面の記事や写真・はもちろんのこと、数年間、アスルがどこにいたのかを知るものはないいなかった。興味をもった新聞記者達も・・・。彼女への関心は、アスルが、(トルコの)不毛な陸上競技砂漠においてオアシスのように輝いたあとになって、ようやく実現したのだ。一体、どうやって?

それはこういうことだ: 2004年の世界ジュニア陸上で決勝に進出したアスルにとってその夏は、新しいキャリアの頂点となった。しかしサバフ紙のコラムニスト、メルト・アイドゥンは、彼女の新しい分野である3000メートル障害でのパフォーマンスを、疑問符をつけていた。そして、彼女の妖精の様な活躍は、昔話のように長くは続かなかった。病気治療のためにうたれた注射が禁止薬物を含んでいた。アスルはこのことを知らなかったが、2年間にわたる出場停止処分を受けた。

「病気だったのです。住まいの近くに薬剤師がいて、彼の勧めで私は注射を受けました。検査を受けることがわかっている私が、なぜ意図的に私自身を危うくしようというのですか。ドーピング注射であることを知っていたら、「けがをした、走れない」と言って走りませんでした」と自身が無罪を訴えた。しかし、無駄だった・・・。その日以来アスルのニュースを私たちが見ることは出来なくなった。長い間・・・。我々は彼女を忘れていた。彼女がスポーツから離れていた間、彼女が何をし、どう過ごしていたのか、(ニュースの)行間においてでさえ、1つの知らせも私たちがみることはなくなった。

スポーツキャリアを始めたばかりのスポーツ選手にとって、2年間競技から遠ざかることは完全に悪夢である。彼女は陸上を止めることさえ考えた。しかし、彼女を再び競技へと向かわせたのは、コーチであり、のちに彼女の夫となるイフサン・アルプテキンだった。自身もトルコ代表の選手であったイフサンは、そのキャリアをアスルのために捧げ、競技を引退し、その日以降1人で彼女のコーチを始めた。このサポートを得て、若きアスリートは再び闘いの場に戻った。彼女に下された出場停止処分は2006年の9月末までだったが、しかし、昔の記録に戻るのに非常に長い時間がかかった。コーチであるイフサンの言葉を借りれば「貪欲に決然と努力していた」アスルが、2010年にバルセロナで開かれたヨーロッパ選手権において走った決勝は、彼女の復活を知らせるレースであった。2011年に大邱で開かれた世界陸上において、彼女は金メダルを獲得し復活を飾った。

キュタフヤには適切な陸上トラックがないことから、トレーニングのために毎日エスキシェヒルまで通っていたアルプテキン夫妻は、今年初めに(オリンピックの)準備のために他の場所を選んだ。ケニアである。標高が一部地域で2000メートルを超えるこのアフリカの国は、エチオピアと並び世界で最も良い長距離ランナー達を育てる場所の1つである。ここで生活している者達の血中の酸素濃度はとても高くなる。そしてこれはスポーツ選手の耐久能力を増加させる。ここ数年いろいろな国のアスリート達は、ここを合宿地として選び始めている。ケニアで行ったトレーニングはアスルにとって相当有益であった。合宿ではコンディションを整える一方、他方ではケニア人達の生活条件を目撃したことは、彼女のモチベーションをも増した。今日、新聞に掲載されたルポルタージュには次の様に述べていた。

「高地であるケニアは私たちにとって適していました。ケニアの人々は私たちにとても興味を示してくれました。ある日、トレーニングを行い、森の中から私たちは出た時のことです。人々は小さな家の中で生活をしていました。子供達の靴はなく、先生達も学校に走って通っていました。アスリート達も裸足で走っていました。彼らの日常を見て、私も貪欲にトレーニングを行いました。こんな貧困のなかで彼らが走っているのをみると、よりパフォーマンスを高めようとする私のモチベーションとなったのです。」

明らかなのは、裸足で走るケニア人達はアスルに大きな影響を及ぼしたということだ。自分の過去の陸上生活のことも結び付けて考えたに違いない。「私が小学校四年生だったころ、クロスカントリーが行われていました。私たちは市場で買った布の靴を履いてレースを行っていました。しかし布の靴で私の足は痛みました。(そこで)私はそれを脱ぎ裸足で走り始めました。これをみた連盟の会長が私をそばに呼び、彼は私の靴のサイズを尋ね、そして次のレースで私に真っ赤な靴をプレゼントしてくれました。その後、陸上競技に夢中になりました。」

アスルは、ケニアでの合宿から戻るとすぐ、イスタンブルで行われた世界室内陸上競技大会で走った。彼女のキャリアでこれが最初の室内競技を、観客の応援を受けながら3位となり、またヘルシンキで開かれたヨーロッパ選手権では、トルコに貴重な金メダルを多くもたらした。同競技では、同じくトルコ人アスリートのガムゼ・ブルトも銀メダルを獲得したことから、外国人特派員らはトルコ人の1500メートルでの秘密は何かと彼女らに質問してきたものだ。二人は口をそろえるかのように、(2度のドーピング違反により国際陸連から永久追放処分を受けている)シュレイヤ・アイハンの名前を口にした。

2000年代の始めに突然現れたアイハンが1500メートルにおいて、彼女独自のスタイルでレースを制したことは、彼女に大きな名声をもたらし、そしてある意味我が国の1500メートルの伝統をつくるもととなったのだった。アイハンが受けた罰によってスポーツ界から離れた後、エルバン・アレイゲッセがその旗を引き継ぎ、2004年のアテネ五輪で1500メートル決勝を走った。現在ではこの距離の旗手をアスルが担っている。オリンピック直前のパリで開かれたダイアモンド・リーグでは3分56秒62という最も良い成績で走ったアスルは、アイハンの達成した3分55秒台に到達するだろうという予兆を与えた。

26歳のアスルにとって、今は、スポーツから離れた数年間の苦しみを果たす時だ。今年上半期に重要なレースを走り終え、そしてオリンピックの決勝に進んだ。トルコは、オリンピックの陸上競技において金メダルを獲得したことはない。アスルは今晩最初の人になるべくトラックに出場する。その上、決勝では(ヘルシンキと)同じように彼女のアシスタントも出場する。20歳の超新星有望株ガムゼ・ブルトは、1500メートルにおいてその旗をアスルから引き継ぐ準備をしており、まさにヨーロッパ選手権で示したように、アスルの背後につけてメダルのチャンスをうかがうだろう。ガムゼは、決勝に向けてこのように話している「ここではアスル姉さんが勝ってもらいたわ。だって私には時間があるから。」

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:濱田裕樹 )
( 記事ID:27329 )