アレッポからの報告
2012年08月12日付 Radikal 紙


私は、ダマスカスに行くことのできる少数のトルコ人記者のうちの一人となった。人々は、内戦に飽き飽きし始めたようだ。近くの地区を戦闘機が爆撃しても、誰も関心を持たない。人々はパンのために5時間列に並んでいる。

シリアで内戦が始まって17か月が過ぎた。シリアに一人のトルコ人記者として入国する計画を考えてからは、1年がたった。隣国における混乱を1年前トルコから入国して目にすることはほとんど不可能だった。体制の支配下にある国境を記者が通過することは禁止されていた。密かに通過する計画のリスクは非常に大きかった。そのため、トルコからだけでなく、世界のメディアからシリアに向かう記者の数は、数えるほどしかいない。内戦が最も頻発しているアレッポに行くことのできる数少ないトルコ人記者の一人に私はなった。

リビア内戦では、反体制派がカダフィーに到達するまで、すべての地域を掃討しながら進んだ。シリアでは異なる戦術が適用されている。アレッポに到達するまでシリア軍に属する二つの軍部隊の前を私たちは通り過ぎた。これも、私たちを連れて行った運転手が、「ここではカメラを隠してください」と警告した後に知った。ここの部隊の兵士らは苦境に立たされている。アレッポで私たちが訪ねたトルクメン人らによって構成される「メフメト2世部隊」の司令官であるムハンメド・スュレイマン氏は、「彼らが私たちに銃弾を撃たなければ、私たちも発砲しない。彼らが逃げていくのを私たちは期待している。あの部隊を破るのには1時間ぐらいしかかからないだろう。しかし多くの兵士が死ぬ。私たちの目的は兵士を殺すことではない。そうでもなくも、チャンスを見つけては逃げ出している」と話した。

アレッポへ続く道はいくつかある。最も安全なもののひとつを私たちは使った。ちょうどアレッポに入るときに新たな警告が来た。「ここはアサド軍が検問をしている。私たちは未舗装道から市内に入る。カメラを下へ…」私たちの心臓はまた飛び出そうになった。アレッポに5日間滞在した後、同じ道を使ったある反体制派の司令官がその未舗装道を通った時、襲撃されたということを前日に知った。現在はキリスで治療を受けている。

■条件は非常に厳しい

アレッポのセイフ・フドゥル地区にある「メフメト2世部隊」に私たちはいる。ここは学校のたてもので、教室が武器弾薬庫、倉庫、寮、食堂などとして使われている。反体制派兵士の一部は、ベッドがないため、コンクリートの上で寝ている。私たちも二日間、学校のベッドで、別の二日間は市民の家に滞在した。

昼間は電気がない。夜も非常に制限されている。冷蔵庫にある食料の多くは腐っている。シリア人にとって食料の問題で最も大きな困難はパンである。小麦粉がないため、国営のパン焼き所が機能していない。反体制派は手に入れたパン焼き所でパンを作ろうと努力している。人々はラヴァシュ(薄くて丸いパン)のような「フブズ」と呼ばれるパンのために5時間も列に並んでいる。

いくつかの地区では市場が開かれたようで、果物や野菜が売られている。開いている店は非常に少ないが、そこのシャッターは半分しか開いていない。ひとたび銃声がすると、すべての店のシャッターが一斉に瞬時に閉まる。人々の状態は飽き飽きしているようだ。メセネ・ハナノ地区での戦闘機による爆撃の時に人々は、数キロ離れた地区での爆撃に見向きもしなかった。

3日後、帰国を計画した。戦争時に計画を立てるのは難しい。燃料の問題もある。難しくても、一台の車を見つけたが、1日遅れた。計画では夕方4時だったが、12時20分ごろに滞在していた学校への爆撃が始まったので、私たちは逃げるようにアレッポを後にした。

■アアザーズは荒廃

アアザーズにいるお年寄りの女性は、孤児となった孫たちと、棚に命中した不発弾を私たちに見せた。アレッポを出発した時、トルコに最も近い町のひとつであるアアザーズを私たちは見て回った。22日間激しい戦闘が起こったアアザーズにある、ある学校の校庭には、まだ迫撃砲があった。

(本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介
されています。)

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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:27337 )