Mehmet Ali Birandコラム:ダヴトオール外相は「期待の星」か「災難」か?
2012年10月10日付 Hurriyet 紙

ダヴトオール外相に関するある議論が巻き起こっている。野党や政府に批判的なメディアだけでなく、公正発展党内や政権を支持する作家の間でも深い見解の相違がある。ダヴトオール外相は、ある層にとってこの国のキッシンジャーと見なされるが、他の層にとっては今までで最悪の外務大臣と見なされる…。さてどちらが正しいのか。

■興味深いダヴトオール議論が世論を賑わせている。

野党と政府に批判的なメディアによれば、彼ほどひどい外務大臣はいない。「ゼロ・プロブレム(全隣国との友好)」と言って踏み出したが、今日ではトルコを周辺の国々との争いに巻き込んている。他には、大学教授だったころに書いた戦略的全体像に関する本(の内容)を実際に実施しようとし、トルコを中東の泥沼に引きずり込んだ人物である…。

野党の中だけではなく、公正発展党内や政権を支持するメディアでも批判が徐々に増えている。党内の動揺の一部分が外交問題であるとしても、動揺そのものはダヴトオールが首相の側近としておこなっている動きに起因する。実施されている政策がエルドアン‐ダヴトオールという二頭体制によりなされていることは知られている。首相が彼に寄せている信頼も、多くの人間を嫉妬させている。

忘れないでおきたいのは、顧問に就き、大臣の職に就いた当初(2009年5月1日)、かつての外相たち(イルテル・チュルクメン氏、メスト・ユルマズ氏、ミュムタズ・ソイサル氏、ヒクメト・チェティン氏)らによって拍手喝さいを浴びた。よい評価をもらっていた。全てうまくいっていて、ダヴトオールには追い風が吹いていた。
内外で威信が上下する流れは長く続いていた。あるときはネオ・オスマン人であると、またあるときにはトルコの軸を変えたと言われた。ある時は、「偉大な戦略家」と言われ、又ある時には迷走する政治家として思い出された。

■変化は近年になって訪れた。

いつのまにかアラブの春は暗い冬にかわり、この地域での風は嵐になり、ダヴトオール外相に対する見解も変わり始めた。今や何か悪いことが起こるや、それが適切かどうかは別にして、外務大臣にその責任がのしかかる。
それなら何がおこったのか、かつて担がれていたダヴトオール外相が今叩かれている。

■「ゼロ・プロブレム」は何だったのか、今どうなっているのか。

「ゼロ・プロブレム」はもともと2009年5月1日に大臣になってすぐ、ダヴトオール外相が打ち出したスローガンだった。その目的は、トルコの世論に定着していたいくつかの固定概念を変える必要性を示すことだった。

―(近隣諸国との問題で)常に我々が正しかったわけではない。
―近隣諸国と争いを起こすべきではなく、彼らからの友好を手にするために、必要ならば最初の一歩を我々が踏み出すべきだ。
―友好を深めるために、必要ならば妥協すべきだ。ただし、踏み出す一歩が譲歩のように見られないようには注意して・・。

このような重大な発想の転換を生み出すため、彼は様々な努力をした。

皆これを歓迎した。

ダヴトオール外相は、トルコがこの地域でオスマン帝国時代から綿々と維持してきた勢力、力を新たに活発化させ、近隣諸国が抱える問題で支援者となり、彼らに支持を与えるポジションを獲得するため様々な努力をした。対立があれば、必要ならば調停者にまた助人になった。ビザは廃止され、海外への旅行者が増えた。
 
アルメニア議定書が調印された。アメリカ政府を怒り狂わせることも厭わずに、イランの核エネルギープロジェクトを支援した。イラクの領土保全のために戦いが始められた。パレスチナ問題では調停者になった。シリアとはほとんど同盟を結ぶまでになっていた。サウジアラビア、エジプト、湾岸諸国だけでなくバルカン諸国にまで手を伸ばした。以前はテロリストとして無視されてきたハマスやヒズブッラーと親密な関係を築いた。バルザーニー氏と初めて友好を公言した。

最初の何年かはダヴトオール外相は、トルコの期待の星としてきらきらと輝き、賞賛の嵐を浴びていた。こうした政治のアプローチは、同時に近隣諸国への貿易、投資も増やした。

■どんな上り坂にも必ず下り坂がある!

しかし、どんな上り坂にも必ず下り坂があるものである。特に中東のような滑りやすい場所で遊ぶときは、細心の注意を払わなければならない。ダヴトオール外相が犯した最大の失敗は、トルコの外のいくつかの展開に対してすぐに必要な方向転換を行えなかったことである。またスローガンを変えられなかったことである。「ゼロ・ブロブレム」はある時をもって、中東の、特にシリア‐イラン‐イラク‐イスラエルの泥沼にはまってしまった。「ゼロ・プロブレム」の枠組みの中で行われた他国との合意がそのまま継続された。実際は少し注意して分析するならば、「ゼロ・プロブレム」を壊したプロセスの大部分がトルコというよりも、相手国が原因であったことが分かる。

アルメニア議定書は、逃してしまった最大のチャンスだった。しかしアルメニアが「トルコに対しすでに説得済み」といってミンスク・プロセスで強固な態度に出るや、アゼルバイジャンも非常に厳しい反発を示した。エルドアン首相が直接赴き、この議定書の前提条件を提示したが、それにもかかわらずトルコを大きな問題から救うはずだったこのプロセスは頓挫してしまった。アゼルバイジャンを前もって説得しておくか、そもそもこの議定書に調印するべきではなかった。結果は失望で終わった。

マルマラ号の事件ではイスラエルの到底承認しえない攻撃が、結果として惨事を生み出し、両国の関係を終わらせた。船の渡航を防ぐことができず、間違いが起こった。「人権・自由・人道支援財団(İHH)」のこの渡航を、トルコは「本気になれば」止めることができた。トルコはイスラエルとの交渉の扉を閉ざし、この地域での自身が有する重要性を失った。イスラエルも同様に(中東での友を)失い、この地域で孤立してしまった。このような野蛮な攻撃をしなければ、トルコに思い知らせようとしなければ、二国の関係は今日ほどのレベルに落ちることはなかったのに。

リビアでカダフィー政権が転覆された事件では政策の迷走が見られ、結果的にリビア市場(しじょう)の大部分をフランスとイギリスに奪われた。しかし市場を拡大するためになされうることはそれほど残っていなかった。

イラクからアメリカ軍が撤退したこと、イラクの支配権を最近の選挙で勝利したシーア派の代表、マーリキー首相が掌握したことは、トルコ‐イラク関係をひっくり返した。イラク政府はトルコ政府を敵と宣言した。マーリキーはトルコだけでなく、イラン以外の全て(エジプト、サウジアラビアも含め)と争っている。イランと敵対しようとすることがマーリキーを遠ざけてしまったのだ。

シリアでの進展(2011年)はすべてを180度転換させた。アサド大統領と歩みをともしていたトルコが、どうしてこの展開を予測できなかったのかという批判が起こった。シリアの指導者は我々の最大の敵になった。トルコはシリア国民の蜂起を挑発したりはしなかった、ただ事前に進展をよく読めていなかったことは明らかだ。

イランは核問題でこれほどまで支援を行ったトルコを、シリアを守るという名目で脅し始めた。次は我々(トルコ)の番であるとまで公言するようになった。

おそらくこれらの進展の大部分はダヴトオール外相以外に原因がある。しかし外務大臣も適切なタイミングで方向転換ができず、スローガンを変えられなかったため批判の嵐を浴びることになった。

■客観的に見ると、良い面と悪い面…

ダヴトオール外相は、もともと大学教授だったこともあり、物事をうまく説明し、嘘をつかず、説得力があり、信頼感を与え、非常にうまいスローガンを作る。新聞記者に対しても、よく知らない話し相手でも、どんなときにも嘘はつかない、事実を曲げない。
しかし話を時折飽き飽きするほど延ばす。教訓を与えようとする雰囲気を醸し出す。自分を目立たせようとしがちである。世論に対しできること以上のことを約束するが、ほとんどの場合誤解を招き、自分自身がやけどを負う。
非常に勤勉で、同じ委員会の仲間や新聞記者を困らせてしまうほど飛び回っている。調停役としてできる限りの力を尽くす。
しかし時折、手に持っているカードを実際の価値よりも高く使う。またトルコとは直接関係のない問題にまで手を伸ばそうとする、無駄な時間を使う可能性がある。
概して、反イスラエル的なところがある。宗教心からか教育からか分からないが、話の中でまた一般的アプローチにおいて、スンニ的な部分を際立たせているところが注目を引く。
反西洋的ではないが、彼の傾向と優先順位は、よりイスラム世界に近いものであり、イスラム地域でよりアクティブなトルコを作ることを目指している。
彼の最大の力は、首相と親しいことである。エルドアン首相は外務大臣を信頼し、耳を傾けている。政策も一緒に作っている。
それに対して、与党内では影響力がなく、一部の政治家からは政治的ライバルとして見られ、批判を受けている。
しかし彼には政治的野望はない。目標は一刻も早く大学に戻ることである。

■結論:

上記の評価は私を含め、ダヴトオール外相を内側外側からみてきた評論家らの「印象」である。誇張や間違いがあるかもしれない。しかし、「印象や認識」というのも事実そのものであることを忘れないでおこう。外務大臣について評価をする際、少しは「泥棒には全く罪がなかったのか?」という問いを問う必要があると私は思う(注)。
ダヴトオール外相は、私の意見では、「トルコ史上最悪の大臣」でもなく、「比類なき孔雀」でもない。実際は、この間に位置している。ダヴトオール外相が犯した最大の間違いは、様々な出来事にたいし国民とのコミュニケーションを、時宜を得て変えることができなかったこと、ブレーキを即座にかけなかったことである。更に、忘れてはいけないのは、外交政策を誰にも相談せずに一人で実行したわけではないということだ。首相と一緒に彼は実行したのだ(!)。

【訳者注】「泥棒には全く罪がなかったのか?と問うこと」とは、ナスレッディン・ホジャの説話に由来する。ある日、ナスレッディン・ホジャがロバを盗まれると、周りのものは、口々にナスレッディン・ホジャの不注意を責めたてた。あきれたホジャは、「じゃあ、泥棒には全く罪がなかったのか?」と問う、という話である。ここではダヴトオール外相に落ち度はあっても、そもそも、近隣諸国で起こっている問題には、それぞれの「犯人」がおり、すべてがダヴトオール外相のせいではない、ということをいっている。

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( 翻訳者:清川智美 )
( 記事ID:27826 )