パレスチナ:分断
2012年10月19日付 al-Hayat 紙


パレスチナ:分断

■ヨルダン川西岸とガザ;結婚さえ禁じられ

【ラーマッラー:ムハンマド・ユーヌス】

2012年10月19日『アル=ハヤート』

ヨルダン川西岸出身のアリー・バタハとガザ地区出身のリハーブ・アブー・ハシーシュは、2000年に、ヨルダン川西岸にあるビール・ゼイト大学で出会い、2人は結婚を見据えて交際した。しかし、その若い男女はその当時、イスラエルの政策がガザ地区をヨルダン川西岸から完全に分断し、ガザと西岸のいかなる接触を禁じ、それは結婚すらを含んでいることを知らなかった。

アリー(31歳)が『アル=ハヤート』に述べたところによると、リハーブ(31歳)は2004年に大学を卒業し、ガザ地区に帰ったが、その時以来イスラエル政府は、西岸に戻ることを彼女に許可しなかった。

リハーブの西岸入境とアリーのガザ入境の禁止ゆえに、この二人は第3の地で結婚することを決定した。2007年、2人はドバイに向かい、結婚式を行ない、2人はイスラエル政府が、正式な婚姻届を提出後に2人に西岸南部の歴史的なバッティール村にある新郎の家で共に生活することを許可することを願った。

アリーは以下のように言った。「私たちは婚姻届を書き、(ヨルダンと西岸間の境界の)橋に向かった。そしてイスラエル人に婚姻届とカードを提出した。しかし彼らはリハーブが私と共に入境することへの許可を拒否した。」

彼ら夫婦は意気消沈し、再びドバイに戻り、彼らの国で一緒に暮らすことが許可されるよう変化が起こることを待って、そこで働き始めた。しかしそうした変化は起きなかった。

常に、アリーとリハーブの故郷への憧れは高まるばかりであった。アリーは西岸に、リハーブはガザに戻ることを決め、2人の祖国で一つ屋根の下で一緒に暮らす手段をそれぞれの側で探し始めた。

アリーは苦々しく言った。「私は解決策が見つかるまでは、あきらめなかった。答えは一言、事態はイスラエルの手に握られている。」

2000年に抵抗運動が起きてから、イスラエル政府はガザと西岸の通行を遮断した。しかしそれは、公式の関係は残っていた。2009年のイスラエルのガザ地区からの単独撤退後は、公式の関係も最低ラインにまで限定され、ガザ地区を西岸からを完全に分断するという政策を採った。

2007年の武装部隊によるガザ地区の「ハマース」の支配以後、ガザ地区は、イスラエルの占領下にある西岸とは異なる政治的・法的な状況に置かれることになった。それはパレスチナ国家の二つの部分の間の分断を進めるものだった。

アリーは言った。「我々は、我々自身が2つの選択の前に立たされていることを認識した。1つはリハーブが西岸に入境し、私と共に暮らすことが許されるような変更を求めながら事態を見守ること、そしてもう一つは第二の故郷を探すことである。国を離れての生活は厳しいので、私たちは待つことに決めた。」

しかし、慈悲のない時を過ごす2人に疑問が投げかけられる。それは、一体いつまで2人は待っていられるかということだ。

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( 翻訳者:岡裕一朗 )
( 記事ID:27938 )