スルタン・アフメト広場の「ドイツの泉」の蓋、消える
2012年11月03日付 Radikal 紙


スルタン・アフメト広場の「ドイツの泉」の銅製の蓋が消えた。付近の商人は「通報したが、誰も気に留めなかった。」と話している。

1907年にスルタン・アフメト広場に建てられた「ドイツの泉」。この歴史的な泉の銅製の蓋がなくなっていたことが明らかになった。いつ盗まれたかについての情報はまったくない。昔の写真では蓋が閉まっていたことが確認できる。付近の商人は「通報したが、誰も気に留めなかった。」と話している。
昨日「ドイツの泉」の前を通ったときに蓋がなくなっていることに気がついた。「元々、蓋はなかっただろうか」と思い出そうとした。昔の写真を見てみると、1907年の建立時には蓋が閉まっているのが確認できた。その後撮られた写真でも蓋はあった。
付近の商人に尋ねてみると、およそ1年前から蓋がないらしい。誰が、どのようにして盗んだのか不明だが、銅製の蓋がなくなっていたことは確かである。スルタン・アフメトカフェの店主、ムハンマド・ドアンさんは、広場で拡張工事が行われていたおよそ1年前に蓋がなくなっていることに気づき、イスタンブル広域市や県、警察署などに電話で通報したが、どこからも関心はなかったと話している。

■部分ごとにトルコへ持ち込まれた「ドイツの泉」

「ドイツの泉」は、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世が1898年11月19日、オスマン帝国のアブデュルハミト二世を訪れた際に、2回目のイスタンブル訪問を記念して建てられた。建築家のM.シュピッタによって設計され、ドイツ人建築家のスコーレ(Schole)とカーリチック(Carlitzik)、イタリア人建築家のジョセフ・アントニー(Joseph Antony)らによって作製された。ドイツで作製された後、部分ごとにトルコへ持ち込まれ1907年1月27日にスルタン・アフメト広場の現在の姿になった。新ビザンティン建築様式の「ドイツの泉」は、内面が金のモザイク模様で装飾され、ウィルヘルム二世の頭文字とアブデュルハミト二世のトゥーラ(花押)がドーム状の屋根に刻まれている。

■拡張工事時に破損

「ドイツの泉」の保護はイスタンブル広域市自治体の管轄である。本紙がこの件について当局に訪ねたところ、「ドイツの泉」の修復作業はファーティフ市の管轄であると返答がきた。しかし、蓋については一言も言及されなかった。ファーティフ市の公式ウェブサイトでは「プロジェクト進行中」と示されている。
県議会の文化芸術委員会が作製した2011年1月11日付の報告書では、旧市街の歴史地区における歩道拡張工事の際、「ドイツの泉」が高圧水で洗浄され、目地の表面と金の葉のモザイクのデザインがいくつか剥がれたとして、歴史的建造物の修復作業が要求されている。しかしこの報告書には、蓋が盗まれたことに関する記述は一文もない。このことから、蓋はこの報告書の日付以降に盗まれた可能性が高いといえるだろう。

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( 翻訳者:松永拓人 )
( 記事ID:28124 )