Murat Yetkinコラム:1つのトルコ、3つの11月10日―アタテュルク没74周年
2012年11月10日付 Radikal 紙

11月10日が巡ってくると、イスタンブル、アンカラ、ディヤルバクルで3つの異なる風景を目にすることになる。


今日、2012年のトルコでは、我々は3つの11月10日の光景を目にするだろう。

一つ目の11月10日は、ムスタファ・ケマル・アタテュルクが息を引き取ったイスタンブルのドルマバフチェでの11月10日。

この11月10日のために数日間、実際10月29日の共和国記念日の祝賀以降、一部の人々は静かに着々と準備を進めている。人々は、アタテュルクのマスク(仮面)を準備し、そのマスクを持ってドルマバフチェ宮殿の前へ行き、アタテュルクを追悼する予定だ。他方で、この状況をよく思っていない人々もいれば、理解できない人もいる。

これはおそらく、そうした層に何年もの間繰り返されてきた言説、すなわちこの国ではアタテュルクに敬意を払うということが、軍人や共和国官僚エリートらによって強制されてきたという言説ゆえであり、またそうした強要がなくなれば社会は短期間でこうした習慣を捨て去ることになるというイデオロギー的言説ゆえであろう。
しかし昨今その言説が正しくないという状況を我々は目にしている。
トルコでは社会のある特定の層が、もはや奨励されていないにもかかわらず、自らの意志で建国者アタテュルクに敬意を、そして同時に彼および彼の側近らのおかげで実現可能となった世俗主義や民主主義システムへの尊重を、声高らかに唱えることが必要であると主張している。
このために、イスタンブルでは11月10日はただの命日ではなく、ほとんどお祭り(バイラム)のように偲ばれるという印象を与える。


二つ目の11月10日はアンカラにおいてである。タイイプ・エルドアン首相がインドネシア訪問中に面会したブルネイ国王の招待を断って機嫌を損ねたくなかったために、首相はアタテュルク追悼日をブルネイで過ごすことになっている。その日、アタテュルクが最初の住人であったチャンカヤ・キョシュク(大統領官邸)の現在の住人アブドゥッラー・ギュル大統領へ役目がまかされる。
アンカラでの11月10日の特徴の一つは、ある期間禁止されていた、国の建国者のために設けられた記念碑への献花が、この10月29日以降、イドリス・ナーイム・シャーヒン内務大臣の通達でもって解禁されたことである。こうした記念碑での追悼式が2時間を超えないようにとのことも、通達に書かれていた。おそらくアマスヤ県知事が10月29日を祝ったように(訳注:アマスヤ知事が10月29日をケーキショップで祝うとして、反発を受けていた)、11月10日もどこかのケーキショップで追悼したいとする人々が出るのではとの懸念から、通達では公務員らにアタテュルク記念碑の前で、9時5分に公式式典を行わねばならないとしている。アンカラにおける11月10日の最も重要な場所であるアタテュルク廟の式典へ、国民を招くか否かも今年議論を呼んだテーマとなった。毎年、公式の式典中は外で待ってもらい、式が終わる10時に国民に対し門が開けられることは問題ないが、今年は多くの市民団体が9時5分にアタテュルク廟に入ることを希望している。アンカラにおける今年の11月10日はこれまでのアンカラとは異なる様相を呈するであろう。


そして三つ目の11月10日はディヤルバクルの11月10日であり、アンカラともイスタンブルとも様相を異にする。ディヤルバクル選出の平和民主党(BDP)国会議員らが、終身刑が下ったPKKリーダー、アブドゥッラー・オジャランの刑務所での待遇(改善)、裁判所におけるクルド語での抗弁、そしていわゆる自治権を求めハンガー・ストライキを始めている。ディヤルバクルにおけるこの行動は、トルコにおける「取り残された人々」の問題とも、ケマル・アタテュルクとも、またエルドアン首相とも関係がないように思われる。

ディヤルバクルにおける11月10日がもつエルドアン首相との唯一の関係は、ブルネイからの帰路でサドゥラフ・エルギン法務大臣が明らかにしたように、クルド語保護法案への調印であるとみなされている。EUが期待しているのもこの点であると、ステファン・フューレEU拡大委員によって述べられていた。


バランスが試される役目がまたチャンカヤへ、すなわちギュル大統領に任されている。11月10日の光景はこれである。

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( 翻訳者:細谷和代 )
( 記事ID:28193 )